人々もみなこのような天候に雪の降ったことを不思議に思っておりました。そしてその時から人々は私のかねてからの望みを知って、雪を好むのは妙であると思いながら、この事を私の着衣式の小さき奇蹟であると申して、その後度々互いにこのことについて話しておりました。とにかくこのことが知れたのは結構であります。即ちこの奇蹟が、童貞の天拝というべき聖主……雪の如く白い百合(清浄潔白の霊魂)を愛せられるところの聖主の、いうに言われぬ慈しみぶかき事をも一層明瞭に表すのであります。
式が終ってから後、司教様は私にいろいろと肉親のように親切にしてくださいました。司教様は側に居られた多数の司祭方の面前で、私が修院に入ることについて願った事や、ローマに旅行した時の事や、垂髪を結んだ事までも、お忘れなく話されて後、御手を私の頭にあてて種々と可愛がってくださいました。その時イエズズ様は、私に間もなく天国の諸聖人の集まりの面前で、私に対して慈しみ深く親切に可愛がって下さるという事をいうに言われぬ愉快な感じを以って思わせてくださいました。そしてその時愉快な感想が、ちょうど天の光栄の一つの予報の如くでありました。
先にこの1月10日は父のこの上ない、めでたい凱旋の火であったと、申しました。実際この祝いはちょうどイエズスが枝の主日に当たってエルサレムに歓迎せられた事に譬えることが出来ます。即ち聖主は枝の主日の後に御苦難に遭われたように、父もこの一日の喜びの後激しい苦難に遭いました。そしてまたイエズスのお苦しみがその御母の御心を貫いたようにこの世界に於いて何よりも私等が一番愛していたところの父の苦難悲哀が深く私の心を貫きました。
父は1888年の6月に続いて全身が中風に罹り、脳充血になる恐れがありました。その時私は修練長に向かって「いま私は大いに苦しんでおります。しかしこれよりもなお酷い苦痛をも忍ぶ事が出来る事を感じます」と申しましたので修練長は幾分か不審に思っておられました。私はその時に後に来る試し……即ち着衣式の一ヶ月の後、2月12日(その日にはテレジアの父がリジュー市を去って病院に入る日で、そこに三年間もおりました。その後中風症が全身に及びましたので、セリナがリジュー市に連れ帰り、そこにも三年間、養生していました。そしてセリナが看護に努めました。1894年7月29日69歳でムースに在る義理の兄弟の別荘で死去しました。死する前セリナを見つめ、感謝の意を表し、看護の行き届いた事を喜び息絶えたのであります)親愛なる父は最も苦い苦しみに遭うという事を、前もって知りませんでした。そしてその時には前に申したように「なお酷い苦しみをも忍ぶ事が出来る」と言えませんでした。その時の私や姉の憂い悲しみはとても言い表す事が出来ませんからこれを省きましょう。
この忠実な僕の徳行に相応しい報いが無かればなりません。
父自らこの酬いを願っておりました。母様はまだご存じでございましょう。ある日父はこの修院の応接室に来られて私等に「私はアランソン市から帰ってきた、この市の「姫君の大天主堂」の中で非常に大いなる恩寵と慰めを得たのでこういう祈禱をした「主よ、私は慰めに満ち溢れて感謝に堪えません。実に私はあまりに幸福者であります。私はこのままで天国に行くことが何か済まないような気が致しますから、主の為に何かの苦しみに遭いとうございます。それで私の身を主に……」と申されました。、が……犠牲として捧げます……という終わりの言葉を私等に知られぬ様に口籠りましたが、私等は直ぐにその意味であるという事を悟りました。
母様、あなたはその時の私等の悲痛をよく知っておられましょう。私は胸も張り裂けるほどのこの思念を詳しくここに書く必要がありません。
私の着衣式の日が近づきました。そのころ父は二度目の中風に罹って居られましたが、案外にも早く治りましたので、司教様に此の着衣式を1月10日に決められました。私はこの式を長く以前から待ちかねておりましたので、一層愉快にその式を受けました。そして少しの不足なく雪さえも降ったのであります。
雪!私は特にこの雪が好きでありました、幼い時からその真っ白い色を好んでおりました。なぜこう雪を好むようになったのでありましょうか? おおかた私は冬のひとつの『小さき花』でありますから、生れ落ちて最も先に眼に入ったのは、この世を覆う雪であったからでありましょう。私は着衣式の日にこの自然界も私と同じく白い服を着ける事を望んでおりました。ところがその前日の空は春のように穏やかで長閑であって、とても雪の降るような天候でありませんでした。1月10日の朝も同じく麗らかな蒼空でありましたので、私は子供らしいこの望みを捨てて、門外に待っておられた父を迎える為に修院の門外に出ました。
すると父は私を視て早くも涙を浮かべて進みより、私を抱きながら「おお、我が小さき女王……」と、私は父と共に堂々と聖堂に入りました。
この日は父にとってこの世の最後の祝いでありまた自分の子供等をみな献げてしまった日であります。無論セリナはまだ家に残っておりましたが「私も世間を離れてカルメル会に入ると」言っておりましたから父は大いに喜んで「一緒に天主堂に行って聖体の中に在すイエズズ様に感謝しましょう。また私の家族の中に与えてくださった多大の恩寵と、そして主が私の娘等を配偶としてお選びくださるのは、私の為にこの上もない名誉でありますから、それをも感謝致しましょう……まことに主は私の娘等をお選びくださったのはあまりも幸福名誉であります。それでなお子供よりも貴重なものを持って居ればそれをも喜んで捧げましょう…… 」と。この貴重なものというのは父自身でありました。それゆえ『主は彼を犠牲として受け取られ、竈の火の中に入れて金の如くに焼き(いろいろと苦しめて後)ついにご自分のお気に召すに相応しい者として認められ(知恵の書3の6)』たのであります。
祭式が終って私が修院に帰る時に、司教様は「テ・デオム」(我ら神を讃美し奉り……)という感謝の歌を唱え始めました、その時そばに居られたある神父が司教様に「この讃美歌は後の誓願式の際だけに歌うのであります」と注意せられましたが、司教様はすでに謳い始められておられましたので、そのまま終いまで歌われました。これは天主様が私の為に特別にお計らいくださったのでありましょう。この祝いの中に他の全ての祝いが含まれてあるからこの祝いは完全でなくてはなりません。修院の囲いの中に着くと、まずイエズズ様の御像の方に眼を注ぎいろいろの花やろうそくで飾られてある中で微笑みなされるように見えました。そして庭園の方を眺めますと不思議にも雪が降って一面に銀世界と変わっておりました。ああこれは如何にも行き届いたイエズズの慈しみではありませんか……ご自分の小さき許嫁の子供らしい望みまでも果たして雪を降らせてくださいました。世間の人々の中には、いかほど位の高い人でも、その愛する許嫁のために雪の一片でも降らすことは出来るでありましょうか……。
ここに母様、父の徳行について一つの例証を申し上げましょう。私等がローマを参拝した時、昼夜長く汽車に乗っておりましたので、人々の多くは退屈しのぎにカルタ遊びをしておりましたが、この遊びについてしばしば議論が起こっておりました。ある日これを弄ぶ者の一人が私等にともに遊ぶことを勧めましたが、私等はその遊び方を知りませんからこれを謝絶しました。実際に私等は彼らと違って記者の中では退屈を感じないばかりかかえって沿線の立派な光景を眺める時間さえも足りなかったのであります。私等が断ったために彼らは不満足を顕わしたので父は落ち着いて「ローマに参拝する為であるから、少し余計に祈禱をすればよい」というような意味で、穏やかに私等を弁護しました。
彼らの中の一人は白髪に対して尊敬すべき事も忘れて、すぐに「幸いにファリゼオ人は少ない」と呟きました。(昔ファリゼオ人はユダヤ人の一種族であって至って傲慢不遜で、些細な事でも訳なくすぐに悪く取り、躓きやすい者であった、それで今日でも何事をも悪く取って躓かんとする者を指してファリゼオ人と言う)父はこの言葉に対して一言も応えず黙っておられました、いや却ってこの無礼の言葉を喜んで聴いているかのよう見えました。しばらくして後、父はある機会を得たので、すぐさま親切にもこの人に対して温かな握手をし、優しき言葉を言い添えました。この美しい行為によって見ると、父は先の無礼の言葉を聞かぬ様に、またよし聞いたにしてもすぐに忘れてしまったと思わせるようにせられたのであります。
かくのごとく、父は他人を赦しという事はこの時初めてではなく、母や知人から聞くと、父は愛徳に背くような言葉を決して発したことがありません。
彼の寛大と愛徳は、同じく至って優れておりました。私がカルメル会修院に入ったとき、ある友人にこう申されました。「私の小さき女王テレジアが、昨日カルメル会に入りました。かくのごとき大いなる犠牲を要求し得られる者は唯天主様のみであって、天主様はこの要求をなさると同時に、私の心が涙の中でも歓びに満ち溢れるほどに私を慰め強く下さる……」と。
これは真にもっともな事であります。然るこの打ち明けにくいという事は、私の霊魂が淡泊なためであったにしても全く一つの試しであった今日はなお一層淡泊になったにもかかわらずすべての思想をも至って容易に打ち明ける事が出来たのであります。
先にイエズスは私の教導者であったという事を申し上げましたピシヨン神父は私の霊魂の教導に任せられると間もなくイギリス領カナダの方に遣わされましたので、私はわずかに毎年一度しかお手紙を受けておりませんでした。このカルメル会に移植させられた「小さき花」は教導者ともいうべき聖主イエズス様を仰ぐようになりました、そしてうるわす露としてイエズス様の御涙と御血を受け、輝く太陽としてイエズス様の尊き面影を受けて十字架の陰で花を咲かせておりました。
私は今までこの尊き面影の中に、隠れた宝の深さを十分に知ることが出来ませんでしたが、私の姉イエズスのアグネスに教えてもらいました。この姉は三人の姉妹中一番先にカルメル会に入りましたのと同じく、一番先に、天配なるイエズズ様の尊き面影の中に隠れている愛の神秘の深さを量っておりましたので、私にこれを示してくれました。私は真の光栄はどこにあるかという事を今までよりもよく了解するようになりました。また『我が国はこの世のものにあらず(ヨハネ18の36)』と仰せられた御方が私に『人に知られずして生活しまたないがしろにせられんことを望み(キリストの模範1,2,3)自己を軽んずる事を喜びとするのが唯一の王位である』とこういう事を示して下さいました。ああ実に私の顔も、イエズス様の尊き面影の如くに全ての人々に隠れ、この地上に於いて誰にも知られないようになりたかったのであります。私は苦しみに遭い、全ての人々に忘れられ、ないがしろにされることを非常に望み非常に望み乾いておりました。
聖主がいつも私を歩ませてくださった道は、如何にも御憐れみの深い事が顕れております。私に或る一事を望むように計らってくださった、その都度いつもその望みを遂げさせてくださいました。それゆえ私はいかに苦い杯を飲まされましてもこれを至って甘く味わいました。
1898年の5月の末頃、長姉マリアの誓願の人に……霊的の婚礼の祝日というべき日に於いて、ベレザメン(末っ子)なるテレジアが特に選ばれて、彼女に薔薇の冠を被らせました。この美しい祝日の後、家族は再び試しに遭いました。父は初めて中風に罹ってから後は、ちょっとしたことにでもすぐに疲労を覚えるようになておりました。ローマに旅行した時も、父に顔に度々疲労と苦痛の色が顕れておりましたので、私は常にこれを心配しておりました。私は父について最も感動したことは、非常に早く完徳の道に進んだ事であります。父は生まれつき短気な性質でありましたが、平素によくこれを抑えて全く打ち克つようになっておりました。そして世間の事の為には精神を乱さず、ちょうど心に触れないように見ておりました。
私は唯今述べたようなことばかりではなくこの修院に入るや否やなおこれよりも苦い試しが、しばしば手を広げて私を迎えましたが、私はその都度愛を以ってこれを歓び迎えました、私は誓願を立てる前に公に知らせた如く、私が此の修院に入りましたのは霊魂を救うため、また殊に司祭方のために祈る目的でありました、目的を達する為にはこれを達する方法を採らねばなりません。イエズスは十字架を以って霊魂を救う恩寵を与えるという事を諭してくださったのでありますから、私は種々の十字架にある度毎に、倍々苦しみを愛するという心が強くなったのであります。そして私は五年間の間この十字架の道を歩みましたがしかしこの苦しい道を歩んでいるという事を隠して誰も知りませんでした。
ちょうど私がイエズス様に捧げたいと望むところの隠れたる花は、このように人に知られずしえt唯天国のほうのみ、香りを放つところの花であります。
ピシヨン(1919年11月15日77歳にて死去イエズス会の神父)と申す司祭は、私が修院に入ってから二か月の後私の霊魂の中に天主様の御働きを見て驚き、私の熱心は全く子供らしくまた私の歩んでいる道は至って平坦であると思っておられました。私は何事もこの司祭に打ち明けたならば大いなる慰めを得られたに相違ないが、心を打ち明けるのは非常に辛かったが、彼に総告白をいたしました、司祭はこれを聞かれて後、「私は貴女が一つの題材をも犯さなかったという事を天主様聖母マリア諸天使諸聖人の前で証明致します、そしてあなたの方からは何の功績もないのに聖主が与えてくださった恩恵を篤く主に感謝を捧げなさい」と申されました。
私の方から、何の功績もなく、ああごもっともであります。難なく私はこれを信じております。私はどれほど弱き者、どれほど欠点の多い者であるという事を、良く知っておりましたので感謝の念だけ我が心に満ちてあります。私は洗礼の時の白い服を罪悪を以って汚したという恐れがあったのであります、聖女テレジアの望みをしているような教導者、即ち徳に学識を添える所の教導者の口から出た、この如き証明の御言葉は、ちょうど天主が御自ら直接証明してくださったかのように感じました。なおこの親切な司祭は私に「我が子に願わくは御主がいつもあなたの目上と修練院長たらん事を」と言い添えなされました。
聖主は実際そうでありました、その上にまた私の教導者でありました、しかしこう申せば私は霊魂上の目上の人々に対して心を打ち明けないという意味ではありません。却って私は霊魂上、目上の方々にはいつも私の傾向を隠さず、ちょうど彼らにとって披いた書物のように勤めました。
私等を導いておられた修練長は本当に聖女でありまして、カルメル会修道女の手本と為すべき御方でありました。彼女は私に働くことを教えて下さいましたが、私は片時もこの御方の傍を離れません。彼女の私に対する親切でありまして、私も深く彼女を愛し敬い重んじておりました。しかしどういうものか私の心が開かれます教導ごとに私の霊魂のありさまが私の心の裏にあることを言い表す為、言葉に困り、その都度非常に辛くありました。
老人の某修道女がある日私の心の中にある事を悟ったと見えて、休憩の時間に「我が小さき女児よ、あなたは目上の人は告白するようなことが余りあるまいと思われる」と申しましたので、私は「どうしてその様な事を思いなさるのですか」と反問しますと、「あなたの霊魂は至って淡泊である、しかし尚完徳に達すると、一層淡泊なるものとなる、どうしても天主様に近づくに従って益々淡泊となるか?……」と申されました。
これは真にもっともな事であります。しかるにこの打ち明けにくいという事は果たして私の霊魂が淡泊なためであったにしても全く一つの試しであった今日はなお一層淡泊になったにも関わらずすべての思想をも至って容易に打ち明ける事が出来たのであります。