1888年4月9日月曜日は、私が「カルメル会修院」に入るために決められた日でありまして、この日はちょうど四旬節の為に延期された。聖母のお付けの祝日でありました、その前日訣別の為にみな自宅に集まりましたが、これは家族らの最後の集会で有りました、こういうような訣別は如何にも胸が張り裂け利用なものであります、出来るだけ人々が自分に気をつけないようにと望んでいるのに、却って人々が一層の親切を以って愛を表されるので、なおさら訣別の悲しみが増してきます。翌朝幼年の時から愉快な月日を送っていたこの家の最後の見納めとして振り返り振り返りつつ「カルメル会修院」に向かって進みました。
前日の如く親族一同と共にミサ聖祭に与りました聖体拝領の後、即ちイエズスは彼ら親族の心の中に降臨せられてから、彼らは皆涙にむせびました、私はその時泣きませんでしたが修院の門を潜る時には胸の動悸は烈しくなり、今にも死にはせんかと案じられるほどでありました。ああこの時……ああこの悲しみ……、こういう別れに遭遇した人でなければ到底その苦しみ悲しみを察する事が出来ません。
私は家族にすがって別れを告げ、父の掩祝を受けるためその前に跪きますと、父も又跪いて涙ながらに私に掩祝せられました、この時天使たちはこの老人が、人生の春なる我が子を潔く天主様に捧げている光景を見て必ず喜ばれたに相違ありません。私はこうして後一同に別れ、修院の内に入って親愛なる母様の手に抱かれました、ここには私の新しい家族の団欒の中に入りました、此の家族らの献身的親切愛情は、とても世の人々の夢にも想い知る事が出来ないほどであります。
私は今ようやくにして目的を達することが出来ました私の霊魂は言葉や筆を以って言い表すことが出来ないほどの深く柔らかな平和に満たされました、そしてこの深く親密な平和は私がカルメル会に入ってから今日まで、八年余りの間片時も離れたことがありません、一番辛い悲しい試みの時でも決してこの平和を失いませんでした。
修院内では何事も気に入り、砂漠の中に入ったような心持ちが致しまして私の小さき部屋も特に気に入りました、私の幸福は至って平和で穏やかであって、ちょうど私の小さき船が進んで行く海はまことに、穏やかで静かに少しの風も波もなく、また青空には一つの雲も翳りもありません、今までに遭ったすべての苦難や試練に対して大いなる酬いを受けておりました、ああその時私はいかなる深い喜び愉快を以って私は死ぬまでここにいるという言葉を幾度も繰り返しました。
幸福 ! 一時儚き幸福ではなく、初めの日の空想と共になくなるはずではありません、ああ空想! 幸いにも慈愛深き天主様はいつも私に空想を抱かせないようにして下さいました、修道生活は私のいつも思った通りであって不審に思う犠牲は一つもありません、しかし母様、あなたはよく知って居られる通り、私は最初に薔薇の花(楽しみ)よりも茨の刺(悲しみ)に会ったのであります。
まず天主様は私の霊魂に日用の糧として、苦しみと無感覚とを与え、その上聖主は私を至って厳しく取り扱うように計らい下さいいました、私はあなたに会うごとに、いつも戒められておりました、ある時も私が掃除した後、蜘蛛の巣が残っているのをご覧になって、修道者の集まっている面前で、私に向かって「15歳になる女児がこの修院の掃除をしているという事がよく分かる、実に情けない早くこの蜘蛛の巣を取り払いなさい、そうして今後よく注意しなさい」と仰せられました。
私は霊魂上の教導のために、あなたの許に参ります、1時間はいつも叱られておりました、そうして、一番辛いと思っておりましたのは、私が自分の欠点、種々の勤めの中に、不熱心とか愚図愚図とするとか献身的の精神がたらぬ等という事、即ちあなたが、私に対する親切心配りを尽くして私に注意してくださった欠点であります。
私は自由時間中、たいていはいつも祈禱を捧げていましたが、1日「この自由時間を仕事に用いるならばあなたがお慶びなさるであろうと」思いまして脇目をなさずに針仕事を致しました、これは自分の任務を完全に果たすという考えとイエズスの目の前だけにしたいという目的とでした事でありましたから、誰もこの心を知らなかったのです。
私は午後になると修練長から庭園の草を取りに遣わされますので誠に辛くありました、その時大抵いつも途中で出会います、ある時「どうもこの娘はなんにも為ない、毎日散歩に遣らねばならぬような修練女があるのは妙である……」と申しておられた事がありますが、私に対しての為され方は何事についても斯様にきびしくありました。
親愛なる母様、あなたから私はこのように甘やかされずして、厳しく価値ある育て方を受けましたのは、如何にも深く感謝致します。充分に悟ることの出来ないほどの大恩恵であります。もし私は世の人々の思っていた通り、総ての修道女たちに玩具のように、可愛がられたならば、その結果はどうでありましょう?恐らく私は、この修道女達に対して聖主の代理者であるという方面を見ず、ただ肉眼に立つ人間のみを見たでありましょう、私が世に居った時に正しく守っていた私の心は、却ってこの修院内に於いて天主様を見るよりは人為的の方面だけを見てこれを愛着するようになったかもしれません……、しかし私は、幸いにも母様の懇篤なる教訓によって、この不幸な危険から逃れる事が出来たのであります。
リジューに帰ってから後、一番先にカルメル会修道院を訪問しました。この時の訪問はどういう事であったか、母様あなたはまだ覚えておられるでありましょう、私は最早すべての工夫を尽くした後で有りましたから、万事あなたの思し召しにまかせました、その時あなたは私に、「司教様に、あなたが約束したことを思い出させるため、今一度手紙を出しなさい」と仰せられましたので私は直ぐにその通りにしました。そして手紙を郵便に出して後は、すぐにも修道院の方に飛んでゆく事が出来ると思って、毎日首を長くしてその返事を待ちかけておりましたが、一向に返事がなくそのうちに遂にご誕生の喜ばしい祝日が過ぎたのであります。御主はまだ眠って居られ、ご自分の手毬の事を気に懸けられずそのままに地に置かれています。
その時の試し!苦しみ!は実に辛い事でありました、しかしいつも心は醒めている所のいる所の御方(イエズズ様)は私に次のような事を諭してくださいました。芥子(からし)の種子のごとく小さく弱いような信仰でもありさえすれば、その霊魂に対しては時としてその小さく弱い信仰を固める目的を持って奇蹟を行って下さるが、特に愛してくださる所の信仰の厚い人のためには……例えば彼の聖母マリアの如き御方には、その人の信仰を試す前に奇蹟を行いになりませんでした。かのマルタとマリアは御主のもとに使いをやって「兄弟ラザロが病気であるから……」と知らせましても、わざと死ぬのを待って後に赴かれ、またカナの婚姻の式に聖母は御主に向かって「家の主人を助けよ」と仰せられましても『まだ時期が来ない』とお答えになりました。ああ、しかしこの試しの後にいかなる報いがあったのでしょうか?ラザロは蘇生り、水はぶどう酒になりました。親愛なる御者はその小さきテレジアに対して、こういうやり方をなされたのであります。即ち私を長く試して後、私の全ての望みを果たせてくださいました。1888年の正月のお年玉としてまたもご自分の十字架を私に与えてくださいました。尊敬すべき母様、あなたはこの時「12月28日罪なき幼児の祝日から司教様の返事がお手元に来ている又「此の手紙には直ぐに入会する事を許されている、しかしあなたには四旬節が済んでから後、入るほうが良いと思う」と仰せられました。まだこの上に三ケ月も待たねばならないかと思って涙を流しました。この試しは私にとって特に苦しく、一方世間のほうに繋いでいる所の縁が切れたことを見ると同時にまた一方から「聖き方舟」に(カルメル会)この可哀想な小さき鳩をすぐに入れるのを断っている、ああその時に私の心!……。
この三ケ月間は種々の苦しみに満たされましたが、なおこの苦しみに優る多大の恩寵を受けました。まず最初には最早この期間には以前の時のように厳しい生活をしないでもよろしいという心が起こりましたが、天主様はこの三ケ月は特に大切である、価値があるという事を諭してくださったので、以前よりも一層真面目と苦業の生活を送るように努めました。
この苦業という言葉はかの多くの聖人方がなさったような苦業ではなく、幼年の時からいろいろの難行苦行を行いました。大聖人達に似た者でなく私の苦業というのはただ我儘な意思を破り捨て、口答えの言葉を抑える事、ひそかに私の側にいる人々に細かき事まで世話を為し、よく気をつけることであります、私はこういう子細な犠牲を以ってイエズズ様の許嫁となる準備をしておりました。そして私は待ち遠しきこの三ケ月の間に、いかほど深く天主様の摂理に任せる心を起こしましたがいかほど多く謙遜と他の善徳に進んだかは、言い表す事が出来ないほどであります。
6章終わり、次回以降7章へ
かく憂い悲しみに沈んでおりましても、参りました聖き所については多大の興味を覚えております、幸いにもフロランスに於いて、カルメル会修道女等に取り巻かれているバジーの聖女マグダレナの遺物を見ることが出来ました。参拝者は各々のコンタツをこの遺物に触れようとしましたが、この格子の中に手を入れることが出来るのは、ただ私の小さい手だけでありましたので私は人々に頼まれてコンタツをこの遺物に触れる役をしました、これが長く続きましたが私は喜んでその務めを尽くしました。
私はこういう特別の取り扱いを得たのは今度初めてではありません、ローマに於いても、エルサレムの聖十字架の天主堂の中に聖き十字架の木片や、茨の冠の二つの茨や、御血の染まった一つの釘がありましたので、私は緩々とこれを拝見するために一番後まで残っておりました、その時この聖き御物を守護しておられる司祭は、以前の祭壇の上に納めようとせられましたので、私はこれに触ってもよろしいかと尋ねました、ところが司祭は「差し支えありません」と申されました。これはとにもこの細き鉄格子の中に手を入れる事が出来ないと思って申された様子でありましたから私は直ぐに小さき指を入れますと、御主の御血に染まった聖き釘に触ることが出来たのであります、かくの如く御主に対しての私の所業はちょうど自分には何事も許されていると思う子供のように、また父の宝をも自分の宝のように見做す子供のようなやり方でありました。
ピーズとゼヌを通り、立派な景色の或る所を過ぎてフランスに帰りました、途中汽車がときどき海岸に沿って走りますが、大暴雨のために海が荒れて波の飛沫が列車の窓を打つようなこともありました。それかと思うとまた広野に出て蜜柑の樹、橄欖の樹、美しい棕櫚の樹などの間を縫って走ります、また夕暮れとなって蒼空に二つ三つ星が輝き始めると、海岸にあるところどころの港の灯火が点いて得も言われぬ美しい景色となります。わたしはこの霊妙な光景を見ながら通り過ぎても、これよりもなお立派にして霊妙不思議な事の方に心を奪われておりましたので、別に名残惜しいようには思いませんでした。
父は私になおエルサレムまで旅行をさせるつもりでありましたが私は聖主の御在世中、生活なさった聖地を見たい自然の傾きがあるにも拘わらず、もはやこの地上のものを見るのはこれで十分でありますから、この上を望みません、それよりもただ天上の美しい事ばかりを望み、この天国の福楽を多くの人々に得させるために、自分は一日も早く「カルメル会修院」に入って囚虜のようになりたいと望んでおりました。
ああ私は望んでいる所の「カルメル会修道院」の門が開かれるのを見るまで、なお多くの戦いや苦しみに遭わねばならぬということを悟っておりました。それが為に天主様に対する信頼心が少しも減りません、そしてこの12月25日の御降誕日には望みを達する事が出来ると思っておりました。
ナーブルに行ったときに聖マルチノ修道院で愉快な散歩をしました、この修道院は少し小高い丘の上に建てられてあるので、このナーブル市の全景が見えます、帰途馬車の馬が暴れたので真に危ないことでしたが、無事に立派な宿屋に着くことが出来たのは、全く我らの守護の天使のご加護であったのでありましょう、いま立派な宿屋と申したのは少しも褒め過ぎた言葉ではありません、実はこの旅行中いつも贅沢を極めた宿屋に泊まりました、今までこういう派手な建物を見た事がありませんでした、真に栄誉や財産は真の幸福を与えるのではないという事を経験しました、私はこの時にこういう栄華な境遇に居りましても、蝋石の階段、絹の敷物の中におりましても、心の中に悲しみ愁いがありました、もしこれがカルメル会に入る許可を得ているならば、藁ぶきの家に居ったにせよ一層幸福で有ったでありましょう。
私はその時に喜びというものは、私等を取り囲んでいる物質の中にあるのではなく、私等の霊魂の中に住まいしているのであるという事を深く感じました、それゆえこの喜びは暗い牢屋の中におりましても立派な宮殿の奥深くにいる如く同じく得られるものであります。例えばただいま私はこのカルメル会の内に居て、種々と内外の苦しみ試しの最中でありましても、世間に居って何の不足もなく、殊に家族に取り囲まれる喜びよりもなお遥かに幸福であります。
先に申し上げました如く私の霊魂は哀しみの中に沈んでおりましたが、外部はいつも同じことで別に変っておりませんでした、私は教皇陛下にお願い申した事は、まだ人々に知れておらぬと思っていましたところが、間もなくそうでないという事をさとりました。ある日他の参拝者等が食事の為に皆下車せられ、私は姉と共に列車の中に残っておりました、その時ふと車窓から外を覗くと、ルグー司教様はそこを通りかかられ私の顔をよく見て笑みを含みながら「カルメル会の小さき修道女よ、どうですか……」と申されました。また参拝者中のある人も私に特別同情を寄せる様な顔付きをして居られるのを見たので、私の秘密は最早参拝者の間に公に知れ渡っているという事をさとりました。しかし幸いに誰からもこの事についてあてつけがましい話しがありませんでした。
アッシジ市でちょっとした出来事がありました、私は聖フランシスコと聖クララの徳行の光り香りを放つところ……すなわち生前住まいしておられたところに参りましてから後、修道院の内で帯締めを紛失しました、そしてこれを捜している間、一行の者に少し遅れましたので、急いで門外に出るともはや馬車が皆出発した後でただ一つ……一番畏れていたレベロニ副司教の馬車だけのこっていました、それでもすぐに出た馬車の後ろを追いかけて行こうか……そうすれば汽車に乗り遅れる……或いはこの馬車に乗せて頂こうか……どうしようかと非常に心配しましたがこのあとで確かな安全な方法を取りました、非常に困っていながらも少しも困っていないような態度をして、その事情を副司教に私は話しました、ところが最早この馬車も満員となっておりましたので、副司教は大層困られましたが、幸いにもその馬車に乗っていた一人の方はすぐに降りて代わりに私を乗せ、自分は御者の側に行きました。私はその時に罠に落ちたリスの如くでありました。司教様や神父や高い位の方々、殊に真正面には一番畏れている副司教が居られるので、真にきまり悪くありました。しかし副司教は至って親切に遇ってくださって、カルメル会の話を為す為に、時々他の談話までも遮られ、私の望んでいるように15歳で修院に入る事が出来るよう、自分の力の及ぶ限り尽くすという事を約束してくださいました。
私はこのお言葉を聞いて大いなる慰めを得ましたが、それでもなお心の苦痛は消えません、もはや私は人々に依頼するという心念を失っておりましたから、天主様に信頼するより他に道がありませんでした。
私の試みは烈しく大になりました、しかし天主様のお招きに応じて行くために私の力の及ぶだけの事を致したのでありますから、涙を流している時でも心の中に大いなる平和を感じておりました、この平和安心は心の奥底に潜み、苦い悲しみは充ちております。そしてちょうどイエズスは居られないように黙っておられました、御容姿を示される何の徴候もありませんでした。
この日にも太陽が光をあえて見せませんでした、イタリアの美しい蒼空は暗雲に閉ざされて私と共に泣くように大雨が降りました、私は許可を得ようと思った目的が外れましたので、もはやこの旅行は私にとって何の愉快もありません、しかるに教皇陛下の最後の御言葉は一つの預言の如くに私に慰めを与えるはずでありまして、種々の妨げが集まって来たにも拘らず、私の身の上は「天主様の聖慮」通りになりました、即ち天主様は人々が思う通りに妨げる事をお許可にならずして、御自分の聖慮通りに摂理うてくださったのであります。
私は少し前から、幼きイエズス様の小さき玩具になるために身を捧げておりました、そして幼きイエズス様に向かって「子供等が触る事も恐れてただ見ているばかりの貴重な玩具のように見做さずして、少しの価値もない手毬のごとく地に投げる事も、足でける事もまた貫く事も片隅に置く事も、なおお気に召すならば胸に当てることも出来る手毬のようにせられんことを」と願いました、約めて言えば私は幼きイエズス様の御手の中で、自由自在にせられる玩具としてイエズス様を喜ばせたい望みでありました。ちょうどイエズスはただいま祈禱を聴き入れてくださいまして。すなわちイエズズ様はローマに於いてこの小さき玩具を貫かれました、たぶん中に入っているものをご覧になるためでありましょう、そして中のものをご覧になって満足せられたので、その小さき手毬を御手から落としてしばらく眠られました、この静かな睡眠の間に御主は何をなさったでありましょうか、また落とされた手毬はどうなりましたでしょうか……?御主は夢うつつになられて時々この手毬を拾っては落とされ又遠くまでも転ばされしまいには再びこれを拾い取られてご自分の心臓に当て、今度は御手から離されませんでした。母様!この小さき手毬は地に落とされた時の悲しさを察することが出来ましょう、しかし目的が達する見込みがなくともなお心の底では、修院に入ることが出来るとふかっく信じておりました・
11月20日が暮れて数日の後、父とともに聖ヨゼフ学院の校長と創立者シメオン師を訪問致しました、ところが図らずレベロニ副司教に会いました、そのとき父は副司教に向かって私の難しき願いの場合に、なぜ助力しませんでしたかと、優しく申して後、校長のもとに行って私に関する事を話しました。この親切な老年の校長は大いなる興味を以って耳を傾けられ忘れない為にちょっとその大略を書記して後、大いに感動せられた様子で「斯様な事はまだイタリアで見聞きしたことがありません」と申されました。
忘れる事の出来ないこの謁見の翌日、私等はナーブル、ボンベイに行きましたが、ちょうど我らの一公を歓び迎えるようにベジユーブ山の大噴火口からは、祝砲の如くにさかんに濛々と火煙を上げて上げておりました、ボンベイ市にその恐ろしい光景の跡が残っております。聖書にも『主はこの地球を見て震わし、山に触れて粉となす(詩編103の33)』という句がありますが、これは天主様の全能を表す為であります。私は唯一人このボンベイに埋まった跡に起って、この世界の儚きこと、壊れやすいことなどを黙想しながら散歩したかったのですが、この市に長く留まることが出来ませんでした。