St. Louis Marie de Montfort - The Secret of the Rosary.pdf で検索すると英文ですが
見つけ出しダウンロードすることが出来ます。これによると49のバラ 154までとなっています。
原文はフランス語?
日本語訳は28のバラ 91まで邦訳を出されておられる御方がいらっしゃいます。
国会図書館サーチでは見つかりません。
こうして6日の間このローマの尊く珍しい主なる不思議を遊覧いたしました。そして7日目に一番尊く珍しい不思議なものを見ました。即ちこれは時の教皇レオ13世陛下であります。私はこの日を待ち望んでおりましたが、また一面に畏れを抱いておりました、この日に於いて私の運命が決まるのでありまして、未だ司教様から何の知らせもありませんでしたから、是非とも教皇陛下の御許可を願うより外に途がなく、これが私にとって唯一の手綱であります。ああ私は数人の枢機官を始め大勢の大司教や司教様の面前で、思い切って教皇陛下に嘆願せねばならないのでありました、かかる重いだけでも私の心を戦慄させました。
私等がバチカン宮殿内にある教皇陛下の聖堂に入りましたのは、11月20日の日曜日の朝でありました。8時に教皇陛下のミサ聖祭に与りましたが、このミサの間は陛下はイエズス、キリストの代理者に相応しい熱烈なる信心によりて真に「聖父」と名付けられるのは当然であるという事を表しなさったのであります。
このミサの福音には次の如き喜ばしい意味が含まれておりました『小さき群れよおそるることなかれ、汝らに国を賜う事は、汝らの父の御意に適いたればなり(ルカ12の32)』と、……私は天主様に激しく寄りすがるという感じが起こりまして、間もなく必ず「カルメルの王国」(修院)に入ることが出来ると信じて少しも疑いませんでした、その時に次の御言葉『わが父の我に備え給いし如く、我も汝等のために国を備えんとす(ルカ22の29』即ち我は汝等に十字架と種々の艱難苦痛を備えるから、これに耐えるならば汝等が我が国を受けるように値せられる……と、また『キリストは己が光栄に入る前に苦しみを受くるのが必要であった(ルカ24の26)』『御国に於いてその御側にいる事を望むらならば、彼の飲みなさった苦しみの杯を飲まねばならぬ(マテオ2の20)』……などという御言葉を思い出しませんでした、その時私は教皇陛下のごミサのあとで、たてられた感謝のミサにも与りました、そしてそれが終わるとすぐ謁見が始まりました。
レオ第13世陛下は一段高いところに置かれてある肘付椅子に倚られ、質素な白い長い衣服を纏われ、白い肩掛けを召され、その側には司教や教会の高き位の人々が多数起立しておられます、謁見の礼式が予め教えられた通り、参拝者が各自代わる代わる御前に跪き、一番先に御足に接吻し、続いて御手に接吻し、終って掩祝を受けるのです、それが済むと二人の華族武官(華族の中、名誉として陛下の近衛兵たらんと志願せられし方々)が次の者と交代する事を知らせてくださるので、起って次の部屋に退くのであります。
みな黙って謁見しますが然し私は是非ともお願いする決心でありました、ところがその時右側に立っておられたレベロニ副司教は参拝者に向かって、諸君がいちいち教皇陛下に話すことは断然出来ないという事を大声で知らされました、この副司教の言葉を聞いて私の心は非常に騒ぎました、、それでどうしたならば良かろうかという風をしてセリナの方を見ますと、セリナは「御話ししなさい」と申しましたそのうちにいよいよ私が拝謁する番が来ました。
私は御足に接吻し、続いて手に接吻する時、両眼は涙に覆われながら「陛下、私はいま大いなる恩寵をお願いいたしとうございます」と申しました、すると陛下は直ぐに身を屈めて頭を近づけてくださいました。その時陛下の深い黒い瞳は私の霊魂の底までも貫こうとするように見えました。
私は言葉を継いで「陛下の金祝の祝典(この年は教皇陛下の司祭になられてより50年目であった)を挙げられる時でありますから何とぞこの15歳になる私を「カルメル会修院」に入れる事を許可してください」とお願い致しました。
側に居られたレベロニ副司教は、少し意外と不満足の様子で「陛下よ、この娘はカルメル会に入りたい児であります、しかし目下霊魂上目上の人がその資格を調査中であります」と申しました。
教皇陛下は「さらば霊魂上目上の人の決める通りに従えよ」と仰せられました。
私はこれを承って、陛下のひざ元で小さき手を合わせ「陛下よ、もし陛下が一言許すと仰せられるならば、他の方々は皆同意して下さるのであります……」と最後のお願いを致しました。
陛下は私を見つめられて心の底までも浸み込むような力ある音調を以って、一句ごとに言葉を強められ「もし、天主様の聖慮ならば、必ず入るようになる」と、私は続いてお願いをしようとしますと、二人の武官は退けという合図をしました、しかし私はなおも掌を合わせてそのまま動かずにおりますと、副司教はこの武官に手伝って私を起立させました、そのとき私にとって父の如き好き教皇陛下は、手を私の唇にあててその手を挙げ掩祝せられ、長く私の方を見ておられました。
謁見が終って後、父は私の涙を流している風を視て悲しまれました、父は私よりも前に謁見しておりましたので、私が陛下にお願いした事などを少しも知りません、副司教は父に対してはまことに親切でありまして、父の謁見の際には陛下に「この人はカルメル会の二人の修道女の父であります」と申し上げましたので、陛下も特別の親切を表すために、尊敬すべき父の頭の上にイエズス、キリストの聖名によりて、神秘的印象を与えられるかのよう御手を当てられました。ただいま天国に居られる4人の童貞女の此の父として、最早キリストの代理者の手を頭の上に置かれるのではなく天の王、童貞達の天配なるイエズス様の御手を受けて、永遠に消えない光栄を受けておられるのであります。
聖書の中に「マリア・マグダレナは常にイエズス様のお墓の傍を離れず、中を見るためにしばしば身を屈めていたところが、ついに2位の天使を見ることが出来た」という事が記されてあります。それで私も彼女の如く絶えず身を屈めながら降り口を覗いておりますと、天使を見ませんでしたが、幸いにも捜していた降り口を見出しました、そこで私はついておいでなさい、通ることが出来ます」と喜び叫びつつ、姉と共に急ぎ走って崩れた後をよじ下がってゆくと、遠方に居られた父はこの大胆な行動を不思議に思われてか、私等を呼ばれましたが、何にも聞こえませんでした。
私等は軍人が危険の真っ最中に勇気が増すのを感じるように、私の喜びも目的を達する為に冒す危険と疲れが、増せば増すほどなお喜びも増えてきました。
セリナは私よりも注意深い気質でありましたから先に案内者が「コロッセオの十字形の石がある。その医師は昔殉教者等が猛獣と闘ったところに据えられてある」と言った言葉を聞いておりましたので、しきりにその石の所在を探しておりましたがようやく見つけました。そこで二人はうやうやしくその前に跪き、ともに祈禱を捧げました。私はこの最初の信者等の血によって紅く染められてある土に接吻した時に強い感じが起こりましたので、その時イエズス様の為に殉教する恩寵を願いました。そして心の中ではこの祈禱が必ず聴き入れてくださるという事を感じました。
しばらくして後記念の為にその側の小石を拾い取り、崩れやすい危険な元の道を辿って外に出ました。父は私等が非常に喜んでいるので少しも咎めぬばかりでなく、却ってその勇気を見て笑顔を湛えておられました。
このコロッセオを見物してから後、カタコンブ(ローマ郊外の地中の墓穴であって、最初の公教信者が迫害の時に祭式を行い、死者を葬ったところ)に参りました。そこにはセリナとテレジアの両人は一緒に聖セシリア童貞の古い墳墓のなかに平伏し、聖女の遺物によって祝聖せられたこの墓の土を少し取りました。
私は今までこの聖女に対して特別の信心は有りませんでしたが、その葬られている所や、殉教せられたところを見、また彼女が音楽の皇后……天配なるイエズス様を特に深く愛し、絶えず主に向かって謳うていた愛の歌のためにこう呼ばれるようになられた……と名付けられたのを聞きましたので、ただ信心を起こすばかりでなく、友情を親密に感じるようになりました。そしてその時から特にこの聖女を愛するようになり、何事も私の心を打ち明けるようになりました、この聖女の行為について特に気に入りましたのは、天主様の摂理に委ねる事、何事もあくまで天主様に深く寄りすがる事、もって現世の喜び楽しみのみ探していた哀れな霊魂等までも清浄の美徳を守らせるために力を得ていたという事であります。この聖女はその一生涯中、もっとも酷い難儀苦痛に遭われた時でも、なおその調子良き愛の歌を謳うておりました、私はこれを不思議と思いません、彼女はいつも聖書を胸に当てておりました、しかし心の中では童貞達の天配たるイエズス様がおられたからであります。
私は又幼い時から特別に愛していた聖女アグネスの天主堂に参りまして大いなる愉快を得ました。その時私は第二の母となっていたイエズスのアグネス童貞の為に、何か遺物を持ち帰ろうと思って、そこの番人にその事を願いましたが、何物をも与えてくれませんでした。しかし人間に断られましたが、天主様が味方してくださったと見えまして、聖女アグネスが殉教せられた時代に出来たごく古いモザイクものの小さい赤い蝋石が突然私のもとに転げ落ちてきました。ああ何と嬉しいことではありませんか?聖女アグネスは御自身直接私にその遺物を与えてくださったのであります。
こういう追懐は真に愉快であります。しかしながら私等にとって最も大いなる慰めと思うのは、この聖き家に於いて聖体を拝領し、御主が御生活なさった同じ場所で、私はイエズス様の活ける聖堂となったことであります。ローマの慣例では聖体は各天主堂にただ一の祭壇が設けられ、そこに保存せられてあります。そうしてその祭壇により司祭が信者たちに聖体を授けます。この小さき聖き家は、貴重なダイヤモンドが白い蝋石に囲われている如くに天主堂の中にあります。そしてその側には聖櫃の置かれてある祭壇がありまして参拝者は皆この祭壇のもとでミサに与り聖体を拝領します。しかし私等はこの部屋で聖体を受けるよりも、この聖き家の中……即ち飾り箱のなかではなくダイヤモンドの中で、天使のパン(聖体)を受けたかったのであります。この聖き家の中にも祭壇がありまして、時々特別のミサがあります。常に中和を以って父は他の参拝者たちに混じりましたが、さほどに柔和でない姉と私とはこの聖き家に入りました。
すると僥倖にも天主様の厚き御摂理によって、ちょうどその時一司祭が今そこにミサをおこなおうとして居られる所でありまししたから、早速聖体を受けたいという事を願いまして素のミサに預かり特別に聖体を拝領いたしました。その時のうれしさ喜ばしさは到底申し述べることが出来ません。しばらくこの家に居ってさえも斯様に喜ばしいことがあったと思えば、後日天の王の宮殿の中に於いて、永遠に天主様と一致する時の歓喜福楽はどれほどでありましょうか?天国には私の歓喜には終わりがなく、そこから出発せねばならぬという悲しみもありません。また私等が致した如く聖き記念として聖主のご存命中生活して居られたこの家の壁を、ひそかに欠いて持ち帰る必要もありません。なぜならば天主の住居はいつまでも永遠に私等の住居となってしまうからであります。
御主がご自分の住居しておられた地上の家を私等に与えたいという聖慮ではなく、ただ貧窮とか質素とか、隠れた生活を重んじさせるために見せてくださるのでありまして、私等の為に残しておられる住家は御自身の光栄の宮殿であります。そこには最早幼児の姿ではなく、また僅かのパン(聖体)のうちに覆われておられるのではなく、限りなき栄光を帯びて光り輝いておられる、実際の御容姿を拝することが出来ましょう。
これからローマについての事を申し上げましょう。私はローマに行くならば、そこで修院に入る好き返事を受けて慰めを得るであろうと思うておりましたところが、却って悲しみが待っておりました。このローマに着いた時は夜でありまして、私は汽車の中で眠っておりますと、駅夫は勿論、参拝者の多数は喜び勇んで、ローマ!ローマ!と騒ぎ叫ぶ声に驚かされて目が覚めました。これは夢ではなく実際にローマに着いておりました。
最初は真に愉快な楽しい一日をローマの郊外を巡りました。全ての建築物は古代の風がそのままに残っておりますが然しローマの中央はこれと違って大きな旅宿や商店の前を通ると別にパリ市と違ったところがありません。このローマ郊外の見物は特に私に深く愉快な感想を残しました。殊にコロッセオ(むかし多くの公教信者が猛獣の餌食となって天主様の為に身を捧げたところ)の遺跡に行くと何とも言えない深い感想が致しました。ああむかし多くの殉教者がイエズス様のために血潮を流した場所はここである……最早彼らの光栄ある名高い戦いによって聖とせられた。その地の址に接吻いたそう……と、しかし予想が外れて、今日この有名なコロッセオは余程壊れて4間ばかりも地上げせられ、遺物を掘り取るために所々深く掘られ、中央はただ種々の破片ものなどが集められてあります。そして通行の出来ないように保存する工事中でありましたので、あまりに危険で誰もこの中に入るものがありませんでした。
しかし私等はせっかくローマに来てこのコロッセオの中に入らず帰るのは如何にも遺憾であると思いましたので、私は最早案内者の説明も聴かず、ただこの中に入りたいという事のみを望んでおりました。
「カンポ・サント」(イタリア語、聖地という意味で墓地の名)はことに私に感動を与えました。白き大理石で作られた、大小の碑像が、三々五々という具合に処々に多数ありまして、これがみな活きているように見えますので、これを慰めたいような気が致します。中には顔は憂愁を帯びていながらも、真に静かに穏やかにちょうど何ごとも天主様に任せているような想をしているのがあります、がこれ等は皆如何にも得難い傑作であります。ここには父の墓そばに立って花を撒いている子供の像があります、これを見ておりますと同じ石で作られたあるその花びらが石のようには見えず、ちょうどその子供の指先から自然に滑り落ちるように見えます。また寡婦の軽い被巾や、若い女の子の髪を結び飾ってあるリボン等が、風に動いているように見えます。
私等はこれを見ている時の感想や到底言い表す言葉が出来ませんから、いつも私等に伴いていた一老人が、大方私等と同じ様な感想を起こすことが出来ないのを残念とでも思いましたのか、少し機嫌を悪くして、同じフランス人でありながら「ああフランス人は如何にも感激しやすいこと」と申しました。この老人はよほど気難しい人でありましたから自分の家に残っていた方が良かったと思います。彼はこの旅行中何ごとも満足や愉快と思わず、市中を見ても旅宿に行っても人々に会っても、何時も不平と苦情を並べておりました。この老人の気質と正反対にいつも満足して少しの不平を漏らさぬ私の父は、この老人を歓ばせんとひたすらに努められ、例えば馬車に乗った時などは最も良き席を譲るというように、いつも自分の寛量を以って何事もよき方面の身を見せておりましたが、しかしかの老人は相変わらず笑顔を見せたことがありません。私はこの旅行中変わった性質を持っている種々の人々に接しました。世間を離れんとする前日に当たって、この世間を研究するのは如何にも興味あることではありませんか。
ヴェニス市はミラノとは全然異なった光景でありまして、この市には大都市の騒々しい模様は少しもなくただ舟歌ののどかな声と静かに艪の音とが聞こえます。ここには余程の趣味もあります。昔の全盛の面影が遺っておりまして何となく悼ましい風が見えます、華美を極めた元総督の宮殿さえも何となく物寂しく、ここは総督が人々に生死の宣告を与えていたところの部屋の中には、総督の声がよく響いていた天井も今日その声が聞こえません。また罪の宣告を受けた哀れな罪人等が、暗い密獄の中で泣き叫び、生きながら葬られた所も最早苦しみが終わって今日その叫びが聞こえません。
私はこの恐ろしい密獄を見物した時に、昔の殉教者の時代に行ったような心持ちがしまして、もし私の信仰を示す為であったならば、私はこの暗いこと炉でも喜んで住居とする……などを考えておりますと、案内者がこれから「嘆きの橋」を渡る。……とこの橋は密獄に入れられた者等がその獄を出て「死んだほうがましである」と嘆きながら通った橋であります。
ヴェニスに別れを告げてから、パドヴァ市に行って聖アントニオの舌の遺物を尊び、後ボローニャ市で聖女カタリナの遺骸を見ました。その顔には幼きイエズス様から受けた接吻の痕がまだ残っているように思われました。
私は幸いにもロレッタに行く事が出来ました。この地は御主が御生活になった聖き家が移しされている地でありまして、聖母マリアがご自分の住まいを移す為に、この地をお選びになったのはこの地は貧しき単純で、太古のイタリア夫人の古賀にして優美な服装なども、未だに残っております、そして他の都市のようにパリ市の贅沢な流行風にも少しも触れておりません。このロレッタの地はいたく私の気に入りました。聖主が御生活なされたこの聖き家のことについて何から申し上げましょうか?私はこの聖きご家族が住まいしておられた家の下に参りまして、私は神なるイエズス様のご覧になった同じ壁を眺め非常に深い感想に打たれました。聖ヨゼフの汗を流された同じ地を踏み、聖母マリアが幼き御子を孕し抱いておられた同じところに立ちまして御告げの小さき部屋を見、またイエズス様の御召し用になった鉢に私のコンタツを触れました。