三、聖なる愛徳の趣向
彼女の愛情の趣向は、実に愉快であるとともに、至って単純であった。そして全ての人にそれを及ぼした。人の気にも留めぬ些事をも応用して、愛の徴を現わすアンヌの巧妙さは、模範と為すべきであった。些細な心尽くし、子供の注意に過ぎないが、この些事に日々の生活の喜びが含まれている。この霊魂にあっては、いつも愛徳が目覚めていると言える。
自身大変花を好んでいたので、どんな折にも、例えば送迎、祝日など、折りにふれて花を捧げる事は、彼女の又となき楽しみであった。クールの城に従姉妹等が泊りがけで来ていた時、いよいよ帰る朝、未だ八時前であったのに、食堂の各自の席には、きれいな花束がちゃんと飾ってあった。早朝庭から花を切って来るためには、よほど早くから起きて急いで用意したに相違ない。これが彼女のやり方で、真心を尽くすには全く熟達していた。
「一九一六年の九月、私が初めてクールの城に着いた時、ネネットの私に対する親切、どうか居心地よくさせようと努めた事、家族との別れを慰めようとした心尽くしはどうして言い表しえよう。『ご両親とのお別れは、さぞお辛かったでしょうね、また御両親のほうでも定めしお心掛かりでしょう。』と同情して、私を慰めたいばかりに、『庭を散歩なさる時、花をお取りになって、お母様に送ってお上げなさいまし少しはそれでお慰め出来るかもしれません。』と言った。また、私自身の心を思いやって『それからここの者は皆貴方の物のように御思いにならなくてはいけません。』等と言うのであった。翌朝、私の部屋の戸を遠慮深く叩く者があった。それはネネットで、私を探しに来て優しく、昨晩よく寝られたかと訊くのでった。その日一日中無邪気に気を利かせて、私の新しい仕事を助け、しやすくしてくれた。この可愛らしい子供は、親切な徳業で絶え間なく私を魅せ感心させた。そして、サボあの美しい町から出た聖人の事、特に聖女ジャンヌ・シャンタルの事などを話してくれたが、すでにこの小さい子供の心には、天主に忠実に、潔く仕え奉った人々の事を考えて、感じ喜び得る理解力を持っていたのである。」と。日夜指導の任に在った家庭教師は語った。
ある時、クールにアンヌより年長の従姉等が暫く泊まりに来た。「どういう訳か従姉は悲しそうな顔つきをしています。」と先生に話しかけたが、いつもこの子供の気を引き立てようと、いろいろ方法を講じた。人を中心にした愛情の親睦は、愛の及ぶ地平線を狭めるが、神中心のそれは無限に広まる。神の植え付け給うた愛には、万物を全て包含する豊かさがある。
アンヌは一人一人を独特の愛情で愛し、己が愛を全てに与えたが、愛は限られ、薄らぐ代わりに却って増して行った。全ての人は、その人と彼女との関係に応じ、順序に従って彼女の親切を受けるのあった。
遊んでいる時でも度々中止して、「祖父様が一人でいらっしゃいますから、少しお相手をしに行きましょう。」と小声で囁きながら行くのであった。生涯の終わりに近づいたこの年寄に、彼女がどんな望みになったか想像以上である。また祖父も、父亡き子等の心を充分に慰めようと、父の代わりになって愛しんだ。またアンヌは、一人の大叔父が重い眼病を患っていた時、守護の天使のように気を付けてまめまめしく世話を焼いた。悪い目が光線で痛まぬ様、電燈を良い具合に動かしたり、いつも歩行の時の手引きになり、戸の開け閉めに先回りしたり、歩きにくい道を助けたり、歩きにくい道を助けたり、快く新設に、まめに世話をした。よく気がつき、人の手助けになろうと心を配っていたアンヌから、受けた特殊な恩愛を、誰もよく言い表せないであろう。
周囲の人の内心に秘められた悲しみに対して、不思議に敏感で、また慰め方も知っていた。アンヌの清い、注意深い目は人々の心の奥底まで貫いた。「先生、貴方は何かお悲しみがお有りでしょう。お家からお便りが無いのでございますか。私はお家の方の為に、もっともっとお祈り致しましょう。」と家庭教師の目に悲しい影が射すと、直ぐに見つけてこう言った。アンヌが悲しみを良く理解し、それを慰める力を持ち、彼女の祈りの力強い事を知って、家庭教師はもっとも内密の悲しみや、心配も打ち明けた。アンヌはそれを「私ども二人の秘密。」と呼んでいた。
アンヌはそのときから、先生の一番の親友になり、イエズスに先生の重大な問題について、もっと熱心に祈り、それが絶え間無い心掛かりとなった。ある晩、子供等の就寝後、先生は遠慮深く室の戸を叩く音を聞いた。小さい生徒は大変心配そうに、真っ白い慈しみの幻のごとく、そこに立っていた。そして大の親友の首に腕を投げかけて、「ああ、先生、貴方は何か御心に考えていらっしゃるでしょう。何か悪い知らせがございましたの?」と言いに来たのであった。
この聖なる子供は、その性質から彼女の得手(おはこ)である、愛を以って万事に尽くし、愛の業を、僅かな事柄を利用して果たした。先生の母が病気である事を知っていたアンヌは、ある日先生に向かって、「昨晩私は眠れませんでしたから、幼きイエズス様に、私の代わりに、あなたのお母様が良くお休みになれるように、お願いしました。」と言った。またある時、先生の家に一緒に遊びに行った帰り途に、「あなたのお母様が満足して下さったので、」本当に私も嬉しゅうございます。」と言った。この子供の心の優しさが偲ばれる。他人の為にという心遣いが、この子供の幼い新鮮さに、ある成熟というべきものを加えて、新たなる可憐さを増した。
ルレイ(Reray)に居た時、アンヌがよく知らない紳士が母を訪ねて来たが、生憎母は留守であった。アンヌはそれを聞くと、「私が行ってその方のお相手をしていましょう。」と言って、純な愛嬌で、長い間、お客を持て成していたが、客間から戻ると、「こういうことはあまり面白い事ではありませんけれど、きっとその方が、彼の方は退屈なさならないでよろしゅうございましょう。それに私はママの代理をしなければなりませんものね。」と言った。
その客は退屈どころか、アンヌとの会話を最も嬉しい記憶と考えている。この細密な心遣いは、召使の者等にも及んだ。門番の窓口を通るたびに、丁寧な挨拶を欠かした事は無かった。また、人は至極善いのであるが、少し気早のメラニイという料理番の女中が短気を起して、アンヌを邪魔者扱いにして怒鳴りつけるので、アンヌは大層心細く思った。「ああ天主様、私はメラニイに、いったいどんな事をしたのでございましょう。」この心配は実際彼女の苦しみであった。アンヌはいつも、召使等の感情を痛める事を気遣っていた。愛は彼女の心に色々の情愛を起こさせた。彼等に天主を愛させようが為には、出来るだけ感じ良く振る舞い、愛嬌良くしていた。子供等に与えられるおいしいご馳走の中で、一番良いところは省いて、いつも彼等の為に取り除けられた。食後の果実を度々食べずに残して置いた。食事の間でも、彼等の事を考えていたのであった。限りない愛情の結晶である。この小さい贈り物を渡す時の慇懃さは、また実に可愛らしいものであった。ミサの時に貰ってくる祝したパンを、真に神様からの贈り物のように思って、大喜びでメラニイに自分から手渡すのであった。とにかく彼女の好意は全ての人に注がれた。手伝いに来るメア・ジャンヌという女中がいた。アンヌは彼女をよく知らなかったが、ある日ジャンヌが鳥の毛を毟っていると、蝿が群れをなして飛び廻り、五月蝿く彼女に集った。ネネットは、それが気の毒で堪らなかった。静かに蝿を追うように勤めながら、「メア・ジャンヌ、あなた一人に嫌な思いをさせたくありませんもの、私も一緒にお相伴しましょう。」と言った。情の籠もった言葉と、深い思いやりの心に感激したメア・ジャンヌは、この美しい愛のしるしを思い出すばかりで、涙を流さずにはおられなかった。
あまねく行き渡ったアンヌの博愛は、広まったからと言って決して衰える事はなかった。いつでも生き生きとした義務観念を持っていた。その熱誠は周囲の物の感情を決して見逃さなかった。何事も善いほうに解釈し、些細な事柄にも、すらすらと弁護の言葉を見出した。これは愛の最頂点である。従妹の一人が語っている。「クール城である時、私達が泊まっている部屋に、ネネットが入って来ました。寝台の上に色々な物が雑然と散らかっているのを見ると、『まあこんなところに、貴女の帽子も、手袋も。』と言ってから、直ぐに弁解を見つけました。『そうそう遅くお帰りになったのですもの、片付ける暇もなかったのでございますね』と言い直していました。と。リジューの聖テレジアの「小さき道」が、最も小さい事を完了する事にあったように、この子供の生涯も、「小さき道」の良い例ではないか。
読んでくださってありがとうございます。 yui
ごめんなさい。
今月は更新のペースが落ちそうです。
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