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愛の力(アンヌ・ド・ギニエの伝)  第五章  五、最も優れた愛徳

2019-11-09 11:35:01 | アンヌ・ド・ギニエ

 
 五、最も優れた愛徳
 
 この霊魂の遺した模範は、聖徳に達するには、完全な愛徳を行うことによる事、神との一致に到るには、日々の生活に於いて、神の聖旨を行えば足りると言う事を私どもに教える。即ち日々の喜びも、悲しみも、乾燥しきった心も、熱情にも燃えたつ感情も、健康も、病苦をも、素直に神の御手より受け、習慣性になっている祈りを、変わる所なく誦えた。「幼きイエズスよ、我は御身を愛し奉る。」と。
 愛徳の光輝は、彼女の動作にも完全に輝き、どんな小事でも、その微妙さが現れてこの可愛らしい小さな聖人に、イエズズを偲ぶような、ある輝きを与えた。最後に近く彼女を知る人々は、誰しもこの清い、優しい面影のなかに透視する神の平和に打たれた。しかしアンヌは特に慎ましく、控えめで、自分に関した事は、何も言わなかった。何事をするにも穏やかな熱情と感ずべき沈着を以って、程よく抑えられた元気を見せた。
 いつでも平然とした態度を保ち、真面目な勉強の時には、よく自分から沈黙を守り、遊び時にはまた驚くほど活発に笑い戯れていた。生来どっちかと言えば、熱情的な性質を持っていたので、子供は夢中になると、思わず我を忘れて、生まれながらの勇猛心を閃かすものであっるが、アンヌは少しも感情を表面に見せなかった。
 ごく温和しい(おとなしい)可愛らしい子供等の中にあっても、アンヌのふとした動作さえ他に優れていたので、思わず皆が従うように見えた。霊魂に天主の住み給う事は、その平和によって証明される。いつの間にか穏やかに変化させられてしまうのである。幾分蒼ざめた優しい顔つきには、生き生きとした美しい表情が漂って、内心の美しさの秘密を現わしていた。熱心な善い生命は心中に秘められ、神の華々しい光輝それ自身である聖霊がこれを支配し給う。透明な、いかにも深みあり、真っ直ぐな目つきに心の清さを示す、忘れ難い表情が浮かんでいた。偶然出会ったある修道女が、アンヌの事を、「いったいこの子供は、どんな子ですか。彼女の目の中に、イエズスが見られる。」と問うた程であった。アンヌが生涯の終り頃、物乞いに小銭を施すと、その哀れな物乞いは、「小さな聖人が私に施してくださった。」と言わずにはおられないほど、彼女の顔つきに感動した。
 この輝かしい、可愛らしい顔つきを、母のゆうじんが生前の面影の記憶を呼び起こして、パステルで描いたが、ある人がこれを見て、少しもアンヌの事を知らぬ中に、「まあ、なんて天使のように写し区しい子でしょう。」と叫んだ。最後近くには、彼女の孝愛心は実際「なんとなく天的なもの。」となっていた。死の数ヶ月前、諸聖人の祝日(Toussaint 11月1日)の聖体拝領後、彼女は全く変容して見えた。教会である人は、自分の席を離れて、人間離れしたアンヌの横顔をよく見るために、歩き出して
行った程であった。最後の秋、カンヌの修院に告白に行った時、一人の婦人は司祭が赦しの言葉を誦えている時、ちょうど目を上げたところが、そのときのアンヌの表情に感激して、後で司祭にその子供の名前を聞いたくらいであった。「なぜそんな事を尋ねるのですか。」と司祭が問うと、「貴方が赦しを与えていらっしゃる時、あの子は本当に変容したごとく見えましたから。」と答えた。
 アンヌはまた降誕祭の前日告白した時にも、この超自然な表情を現わした。その時にはすでに大病の床に就いて、苦痛に呻吟(しんぎん 苦しみうめく)していたので、紙の幻を楽しむのも、彼女にしては遠い事ではないのであった。この同じ神は、我々をも全く神に似通わしめ給う事を得給うので、聖ヨハネの言葉を借りて言えば、「彼が現われ給う時には、全く我等も彼に似てしまう。」と(ヨハネ三章2節)。この超自然の光輝はどこから来るか。この霊魂の最も秘められた動き、愛の秘密の望みは、他人に働きかけ、神秘的の光は外に洩れ出でた。この愛の感激を説明するに言葉は及ばない。温和な可愛らしい魅力から、それを感じ認める事が出来るのである。この超自然的美徳は、花の香のごとく四方に匂い、東雲の光のごとく暗黒を破り、このちから、この熱情、愛らしい源が、いったい何処から湧きだすかと訝らしめるほど顕著になった。人々は彼女の持つ愛嬌ともいうべきものに浴し、彼女と交渉のあるごとに進歩し、清くならざるを得ないのであった。生涯の終りに到っては、この印象が殊に著しかった。死の数週間前の十二月の初め、アンヌはすでに頭痛に苦しんでいた。
 みんなと一緒に駆け廻って遊べないので。「先生の傍で静かに休んでいて宜しいか、」と尋ね、平和な時を松の木陰で過ごした。庭の新鮮な芝原を前にし、カンヌの紺青の空の下にこの霊魂はいよいよ伸び広まって行った。彼女の温かい愛情と、いよいよ深まって行く謙遜は、一言一句、願い事にも、沈思中にも、溜息にも、微笑みにも現れていた。山のように巧を積んで重くなっているこの生涯は、よく熟した果実のように垂れ下がっていたのである。天の庭師が、まもなくこの果実を摘み採りにこられるだろうという予感を受けさせられるのであった。
 元旦を愛する人々を喜ばせようと、どんな細心の注意をはらい、心を尽くし、技巧を凝らした事であったろう。アンヌの傍で働いていると、彼女が誰でもの手伝いをしようと勤めている事、また、あまりに自分が小さすぎる事、充分に、上手に、手助けの仕方を知らぬのを、残念がっている様子がよく分かった。
「愛は深切なり。」彼女は他人に与え、慰め、喜ばせ、満足さえずにはおられないのであった。彼女の心が愛に満つるほど、いよいよこの望みにかられた。家族の人々が何か不足してはいないか、不自由を忍んでいないかと心を痛めていた。この子供は、「何か御入用のものはございませんか。」と尋ね、「いいえ、ネネット、入用なものは皆持っています。」と答えても、「本当でございますか。」と聞き直し、「もしも後でお入用の物にお気づきになったら、本当に何卒後遠慮なく私に仰ってください。」と念を押すほどであった。
 この子供に近づく者は、みな彼女から発散される神聖さを感得させらずにいられなかった。親類の人達も、この愛の聖なる輝きの印象を受けた。馴れなれしすぎず、控えめで、完全な慎みを保ちながら、誰にでも愛しみ深い情を失う事はなかった。それゆえ、誰も彼女を愛し慕った。
「私どもはネネットの純潔に打たれ、傍近くにいたい気が致します。」と従姉妹等が話した。最も小さい人達も、アンヌの完全に打たれる事はしばしばあった。一人の従姉は犠牲を捧げる前に、「ネネットのようにしなくては。」と言ったと先生が言っている。
 彼女の徳を証明する事柄は多いばかりではく、揃っていたと明確にしている。「清い良心は喜びをもたらし、彼女はそれを自ら愛好し、他人にも与えた。」「彼女は自身味わいながら、言葉には表わせない己が力と、この内的平和を他に分け与えた。」
「彼女の傍らでは自ずから落ち着きを味わう。」
 愛は何とすばらしいではないか。神の御前に誰がその価値を語れよう。聖パウロはこの最上の賜物を渇望せよと言っている。「汝らは最も良き賜ものを慕え、われはなお、すぐれたる道を示さん。」(前コリント12章31節)「われたといわが財産をことごとく(貧者の食物として)分け与え、またわが身を焼かるるために渡すとも、愛なければ、いささかもわれに益あることなし。」(前コリント13章3節)「 愛は堪忍し、情あり、愛は妬まず、自慢せず、高ぶらず、 非礼をなさず、おのれのために計らず、怒らず、悪を負わせず、 不義を喜ばずして真実を喜び、 何ごとをもつつみ、何ごとをも信じ、何ごとをも希望し、何ごとをもこらうるなり。」(前コリント13章4-7節)
 この子供の生涯の光輝に照らされて、この言葉を繰り返す時、私どもの感情は、またひとしお沸き立たせられる。何故ならば、この使徒の言葉は生き生きとした実証を前にして、特に私どもに真実に響くのである。愛を讃えるこの一ツ一ツの句は、あたかも彼女の生涯の例を一々取り上げて賛美しているように思われる。
 救い主は私どもに仰せられる。愛は全ての律法と完徳の摘要である。それは全ての聖徳を含み、その進歩は内的で、天に在します神へと、霊魂を向上させるほど、その焔は強いのである。その光は私どもの目を正面に照らし、清く保たれた肉身を通じて自然に輝き、外面的に洩れ出でる。あたかも雪花石膏(アラバスター Alabaster)の瓶のなかで灯火が照ると、外に柔らかい光を投げかけるように。
 パスカルは曰く、「聖人は己の中に王国を持ち、その輝かしき勝利威光は少しも地上の荘厳を要しない。また何も語る必要もない。彼等は神と天使等と共に住み、肉体も霊も求める事なく、神によって全く満たされている。」世俗的な考えを持つ人々は、或いはこの幼児を、ただコセコセし過ぎていると冷笑するかも知れないが。信心深い人々は、雪花石膏の瓶より洩れ出づる、この内的光輝の美を認めて、この子供の並ならぬ霊魂に感ずるであろう。

読んでくださってありがとうございます。 yui


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