Johnny’s Dazed And Confused Days

〜ジョニーのぼんやりと混乱した日々〜

♪ 私の兄弟 / サイモンとガーファンクル:1964年作

2024年01月13日 08時00分00秒 | 1960年代の洋楽
成功を遂げるには、、、
実力だけでは如何ともしがたいものがある❗️
ましてや大成功となると、実力にプラスして、運と偶然が重なる事がない限り、
それを手中に収めることは難しい‼️

今日ご紹介するサイモンとガーファンクルも、世界的なブレイクを果たすことになる切っ掛けは、まさに“運と偶然の賜物”でした。

自分たちに歌わせて下さい!
1964年当時、ボブ・ディランのプロデューサーだったCBSのトム・ウィルソン氏、もうひとつの担当のグループ、ピルグリムスの新曲を物色していたところ、“偶然”、そのアンテナに引っ掛ったのが、ポール・サイモンという無名の若者が書き上げた「He Was My Brother」という曲でした。
早速、その本人に、そのことを打診してみたところ、「他人じゃなく、友人と二人で歌わせて下さい!」と売り込まれる羽目になりました。
結局、ポール・サイモンという無名の若者の熱意に動かされたトム・ウィルソン、オーディションを経て契約した、彼らのデビュー・アルバムをプロデュースすることになりました。

【 Album data 】
リリース:1964年10月19日
チャート:米国30位(1966年)、英国24位(1968年)

1964年の3月に録音されたアルバムは、タイトルが『Wednesday Morning, 3 A.M. 水曜日の朝、午前3時』で、リリースされたのはその年の10月19日の事でした。

今日ご紹介する曲は、サイモンとガーファンクルの誕生秘話の元になった曲「私の兄弟  He Was My Brother」です。

この「私の兄弟」という曲は、公民権運動に参加した結果、殺されてしまった友人のことを歌ったものとされていますが、その一方で、ケネディ暗殺のことを歌った曲とも云われています。
いずれにしても、この時期のアメリカは、人種差別の風潮がまだまだ残っていた時代で、数々の民権運動が起こっていました。
まさに、この曲は、フォークの王道を行くような曲だったようですね!

時代が許さなかった?
しかし、彼らがデビューした1964年という年は、2月にビートルズが初渡米し、ブリティッシュ・インヴェージョンと言われた“英国バンド”がアメリカン・チャートを席巻するという、彼らにとって非常に不利な状況だったこともあり、素晴らしい内容のアルバムであるにも係わらず、売り上げが3.000枚という全くの不発に終わってしまいました。

私の兄弟 / サイモンとガーファンクル
彼は俺の兄貴だった
5歳年上のね
彼は俺の兄貴だったんだ
23歳のあの日に死んでしまった

「民権運動だと? 訳のわかんねえ事ぬかしやがって!」
町のやつらは俺の兄貴に、罵声を浴びせた
「とっとと出てけ、よそ者野郎、ここにいたらぶち殺すぞ!」

彼はひざまずいて歌っていた
暴徒に引きずられながら
そしてやつらは、俺の兄貴を撃ち殺した
兄貴がまがったことを許せない人だったからさ!

彼は俺の兄貴だったんだ
泣いたって生き返りはしない
彼は俺の兄貴だった
彼は、仲間の自由と引き換えに死んでいったんだ




コメントを投稿