成功を遂げるには、、、
実力だけでは如何ともしがたいものがある❗️
ましてや大成功となると、実力にプラスして、運と偶然が重なる事がない限り、
それを手中に収めることは難しい‼️
今日ご紹介するサイモンとガーファンクルも、世界的なブレイクを果たすことになる切っ掛けは、まさに“運と偶然の賜物”でした。
自分たちに歌わせて下さい!
1964年当時、ボブ・ディランのプロデューサーだったCBSのトム・ウィルソン氏、もうひとつの担当のグループ、ピルグリムスの新曲を物色していたところ、“偶然”、そのアンテナに引っ掛ったのが、ポール・サイモンという無名の若者が書き上げた「He Was My Brother」という曲でした。
早速、その本人に、そのことを打診してみたところ、「他人じゃなく、友人と二人で歌わせて下さい!」と売り込まれる羽目になりました。
結局、ポール・サイモンという無名の若者の熱意に動かされたトム・ウィルソン、オーディションを経て契約した、彼らのデビュー・アルバムをプロデュースすることになりました。
1964年当時、ボブ・ディランのプロデューサーだったCBSのトム・ウィルソン氏、もうひとつの担当のグループ、ピルグリムスの新曲を物色していたところ、“偶然”、そのアンテナに引っ掛ったのが、ポール・サイモンという無名の若者が書き上げた「He Was My Brother」という曲でした。
早速、その本人に、そのことを打診してみたところ、「他人じゃなく、友人と二人で歌わせて下さい!」と売り込まれる羽目になりました。
結局、ポール・サイモンという無名の若者の熱意に動かされたトム・ウィルソン、オーディションを経て契約した、彼らのデビュー・アルバムをプロデュースすることになりました。
【 Album data 】
リリース:1964年10月19日
チャート:米国30位(1966年)、英国24位(1968年)
1964年の3月に録音されたアルバムは、タイトルが『Wednesday Morning, 3 A.M. 水曜日の朝、午前3時』で、リリースされたのはその年の10月19日の事でした。
今日ご紹介する曲は、サイモンとガーファンクルの誕生秘話の元になった曲「私の兄弟 He Was My Brother」です。
今日ご紹介する曲は、サイモンとガーファンクルの誕生秘話の元になった曲「私の兄弟 He Was My Brother」です。
この「私の兄弟」という曲は、公民権運動に参加した結果、殺されてしまった友人のことを歌ったものとされていますが、その一方で、ケネディ暗殺のことを歌った曲とも云われています。
いずれにしても、この時期のアメリカは、人種差別の風潮がまだまだ残っていた時代で、数々の民権運動が起こっていました。
まさに、この曲は、フォークの王道を行くような曲だったようですね!
いずれにしても、この時期のアメリカは、人種差別の風潮がまだまだ残っていた時代で、数々の民権運動が起こっていました。
まさに、この曲は、フォークの王道を行くような曲だったようですね!
時代が許さなかった?
しかし、彼らがデビューした1964年という年は、2月にビートルズが初渡米し、ブリティッシュ・インヴェージョンと言われた“英国バンド”がアメリカン・チャートを席巻するという、彼らにとって非常に不利な状況だったこともあり、素晴らしい内容のアルバムであるにも係わらず、売り上げが3.000枚という全くの不発に終わってしまいました。
私の兄弟 / サイモンとガーファンクル
彼は俺の兄貴だった
5歳年上のね
彼は俺の兄貴だったんだ
23歳のあの日に死んでしまった
「民権運動だと? 訳のわかんねえ事ぬかしやがって!」
町のやつらは俺の兄貴に、罵声を浴びせた
「とっとと出てけ、よそ者野郎、ここにいたらぶち殺すぞ!」
彼はひざまずいて歌っていた
暴徒に引きずられながら
そしてやつらは、俺の兄貴を撃ち殺した
兄貴がまがったことを許せない人だったからさ!
彼は俺の兄貴だったんだ
泣いたって生き返りはしない
彼は俺の兄貴だった
彼は、仲間の自由と引き換えに死んでいったんだ
彼は俺の兄貴だった
5歳年上のね
彼は俺の兄貴だったんだ
23歳のあの日に死んでしまった
「民権運動だと? 訳のわかんねえ事ぬかしやがって!」
町のやつらは俺の兄貴に、罵声を浴びせた
「とっとと出てけ、よそ者野郎、ここにいたらぶち殺すぞ!」
彼はひざまずいて歌っていた
暴徒に引きずられながら
そしてやつらは、俺の兄貴を撃ち殺した
兄貴がまがったことを許せない人だったからさ!
彼は俺の兄貴だったんだ
泣いたって生き返りはしない
彼は俺の兄貴だった
彼は、仲間の自由と引き換えに死んでいったんだ
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