今日の一貫

メディアとブログと真実

 近年、リアリティというと、当面、自分で感じたものを信じる、ということ以外になくなっているのだと思います。
20世紀は、そうではなく、真理を求めるだとか、科学的、だとか言う考え方が支配したわけですね。

それでも実は真理ってなんだろうというのが、今の状況なのだと思います。事象の背後には常に真理がある、これが近代の考え方。それに対し、諸要因の組み合わせで、主張も代わってくる、脱近代の考え方。おもしろいことに科学を極めた人にこうした後者の考えをする人が多い。養老さんや藤原さんがそんな代表格か。
そこには確かなものは何もなくなってくる、という不安感がある。

 ただ、確かなものは伝統だとか自然だとか、確かになくはない。「伝統文化というのは、人が人と触れ合いながら、あるいは人がその地域の自然と触れ合いながら、そういった関係性が凝縮されて、培ってきたものだろう。

 人と自然との触れ合い方とか、あるいは人との触れ合い方が凝縮されてあらわれてきたのが伝統文化であるとすると、伝統文化をひもといていくと、その地域の人たちの考え方とか、あるいはその地域の環境の特性といったようなものが見えてくる。


 ところが、例えば、理性の局地である、IT社会というのは、何となく感性が失われつつあるというか、「ある種の誤った像」?が植え込まれているような、そういう危険性がある。」理性で表現したものを、話半分程度で受け止めておけばいいのだけれど、20世紀的真理になれた人から見れば、新聞情報は正しい、活字メディアは正しい、映像メディアは真実を伝える、となってくる。

 その地域あるいは地球がどうなっているかということは、私たちは、いろいろな書物あるいはいろいろなニュース報道から知るわけですけれども、そういう活字になったこと、あるいはニュースの写真が、ITのサイバースペースの中で流通をし始めると、私たちはそれをどうもうのみにしてしまう危険性がある。

 いろいろな形でメディアが注目したことが、あたかもメジャーなことであって、あるいは統計の中でとらえられた統計の報告がとても真実を伝えていて、といったようなことの、単純な解釈にいろいろな私たちの世界が動かされていく危険性をはらんでいる。

 よく言われることですが、地図はうそつきである。現状を詳しくあらわしたものが地図なんですけれども、地図の見方とかあるいはその表現自身がデフォルメが含まれていて、どうも曲解されて伝わる可能性がある。

 統計も同じような側面があって、統計というのは、私たちは客観性のよりどころだと思っているんが、ある種の統計がひとり歩きをして、誤った考え方が生まれてしまうという、そういった危険性がある。
これは統計をちょっとかじった人は皆知っている。「統計でうそをつく法」という本まで出ているくらい。

 こういった真実や真理に対する誤解を、うまく現在のITや、インターネット、ブログが補完できないだろうかというのが、今後のメディア利用者の課題になるのではないか。

 例えば、伝統文化というのがその地域の人との交流、あるいは人と自然との交流が凝縮されたものだとすると、そういった伝統文化の交流を通じて、本当の地球の姿といったようなものが生まれてくるのではないか。

ブログも、怪しいと言ってるだけでなく、大いに利用したらいいと思う。

例えば正確に設計された統計データーより、オープンソースの、センサーを自在に付けて集めたデーターの方が、真実を語ることはよくある。花粉情報とか、交通情報とか、はもう実用化されている。

私が最近気にしてるのは、オープンソース、の仕組み。
リナックスや、ウイキペディアのように、誰でも参加できて、自由に書き込み、しかも、ウインドウズや、ほかのよく設計された百科事典に負けないものができるという仕組みです。

これなど人々の善意を信じなければできない話。
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