だが、理屈がないと生きられないのが最近。
生きる理屈を考える習慣や、「自分とは何かを考える」暇を得、その分、必死に生きる癖を失った。何かを得れば何かを失うのは世の常。経済的豊かさを得て、ひたむきさがなくなったのかもしれない。就職しない学生を見てそう思う。
私も就職しなかった。だが、それは当時の社会の趨勢ではなかった。家が裕福だったわけでもない。勉強しようと思って大学院へ進んだだけだった。
学資もなく、奨学金も貸してもらえるとは限らず、かなり心細かったが、いざとなったら就職すればいいという開き直りがあった。
今になって思うに、70年前後の日本は、皆不安だったのではないか。私は自分自身気楽な人間だと思ってはいたが、それでも、食えない恐怖、貧乏の恐怖は確かに強くあった。
今になって思えば、明治や大正の人々が仕事がなくても結構食えていた事実を知るつけ、また職人や農民が、借家暮らしでも、さらには食えなきゃ食えないで結構気楽にやっていたのを見るにつけ、こうした強迫観念は私たちの世代に特有なものだったのかもしれない。
それを、昭和恐慌時の身売りや(これはその後フレームアップということがわかったという)、階級などというインテリ好みの悲惨さを勉強したために、自分たちはそうはなるまいという防御本能、つまり、貧困恐怖症が蔓延したのかもしれない。
しかし、高度経済成長は、みんなで同じ夢を持ち、今日より明日がよくなるという、進歩主義的思想を信じ、夢を見ながら、やってきた。進歩は、昨日の封建的日本を壊すのが使命と考え、古い、新しい、という価値観ですべてを覆ってきたように思う。
私もその加担者だった。
その一方でもし失敗するなら、皆一緒。玉砕するなら一億玉砕。貧乏になるなら皆で貧乏に、それなら安心だ。中流ならみんな中流に、しかし確実に社会は進歩して良くなっていく。
個人が個人としてたつ社会ではなかった。寄らば大樹。大企業に就職することが自分の安寧につながる。最も大きな大樹は国家だ。官僚になることがエリートコースという人がいた。確かに勉強しなけりゃ試験に受からないのだから、学校秀才は皆、官僚を目指した。
しかし、いかんせん農学部。農水省しか行き場がないのに、150人いた同級生の大半は国家公務員試験を受けていた。今同窓会名簿を見ると、1割は、公務員になっている。入れば入ったで上にキャリア、法学職がいる。農学職は皆悲哀をなめている。
農水省の試験研究機関こそが最高とする教育が国立大学の教授達によってなされていた影響が大きい。
農学といっても農業のことなんか考えてなかった。それはあたり前といえば当たり前だろう。皆自分の明日の食いぶちのことで精一杯だったのだから。
そうした後ろめたさから、社会運動に活路を見いだす者もいたし、彼らに同情とシンパシイを持つ者が多かった。が、彼らは彼らで、他人とは違うんだという自尊心の置き所として、学生運動に参加していたようにも思う。
大儀としては、社会のため、実は自分のため、そうした分裂した心象が、経済発展途上の日本を支えた若者の心情だった。
隣がやっていれば当然のように自分も、という社会だった。
それが崩れるのが、バブル。
誰もが財テクに走ったが、しかし、財テクに走った人々は90年代後半に次々と自殺していった。
このころは正直辛かった。
今までの価値観がすべて崩れた感じなのだ。
それから社会が変わった。
赤信号をみんなで渡れば、みんな死んでしまう可能性がある、と当たり前のことに気づき始める。
横断歩道を渡る判断は個人個人で違ってもいいのだ、と知る。いや違った方が健全だと、催眠術からさめたように知る。
人の豊かさ。人々の豊かさ。人は何をユタカと感じるかは人によって違う、ということも。肩を組んで、歌を歌って同士感覚になり明日もみんなで猪突邁進、そんな価値観はどこかに無理がある。
豊かさは、人が何を大事にするかによって変わってくる。
経済的な豊かさを得た日本人が、次に求めるものは何か?
世の中には、日本人が得た豊かさとは、案外違った経済的豊かさがあるのかもしれない。そう考えるのは、あるいは、単なるノスタルジアかもしれない。
しかし確実なことがある。いつも「猫の太郎がいること」が幸せだ。なぜなら、愛があるから。無償の愛だし、見返りを考えない愛があるから。それは人を至福にする。
愛は人をゆたかにする。
近代という、大きな歴史脈絡の中で、人間が得たのは合理。
だが、合理は、論理である限りどこかで破綻する。
それにひきかえ愛は無償であればあるほど破綻しない。
裏切られてもいいのだ。裏切られてもいいとするのは、合理にはない。そんな発想はついぞ、近代にはなかった。
しかし、無償の愛は体力を必要とする。
体力や精神力が必要だ。愛されて育った子供は、精神的体力があるし、人を裏切らない。
最近は、愛されて育った個か、そうでないか、学生を見ればわかるようになった。
ゆがんだ愛の過剰下で育った子供が多くなったのだ。過剰な自信と自己主張があるが、しかし、寛容と包容力がなかったり、自信のなさと裏腹のゆがんだ主張。
家族の愛の不足はしかし昔から。
社会の愛が足りなくなっているのだ。
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