二次創作は最近、悉く「推し」ありきになってしまいました。
「推し」のある世界というのは、これはオマージュです。
オマージュは信仰に近いです。
(推しとの恋愛を蔑む非オタいたりするけど、厳密に言えば推しは恋愛対象では無いのかも…。対等な関係でないので)
ゆえに、その信仰となる対象の目線や世界観は絶対ですし
原理主義に近い愛情と信仰を寄せれば、
それを汚すような物は許されません。
それはどこまでも「詩」(実際、聖書には詩が載っている)
ですので、推しを賛美する限り、作風は詩的なそれであり
ムードで押し切るタイプであり
よく商業誌で言われるような「起承転結」「展開とテーマ」では描きにくいかと思います。
そして、「やまなしオチなし意味はうっとり」で許されるのが同人なんで
同人誌はオマージュが根をはるのには非常に相性良い土壌だったと思います。
私の場合は、まだ「推し」という言葉が無い時代に
元々は「ビックリハウス」あたりのパロディサブカルから
元ネタの対象をアニメにした…という物でしたので
育った土壌がオマージュでなく「パロディ」です。
パロディも愛です(そうなんですけど、オマージュしか知らない人には厄介です)
幾分「客観性」が入ると言いますか
元々、ジャーナルめいたモノの血をひいていますので
「信仰」にはなるかどうか…
信仰は盲目的である方が望ましいです。
推しのためなら何十万円もかけるような人
「推しのためなら死ねる」という人がヒエラルキー上位になり
もっと言えば「推しが好きすぎたのだが殺された」ような人は殉教者として永遠になります。
そうやって教会は大きくなってい…(おっと禁句だ)
これって性格とか時代とかあるのかもなあ。
「推しありき」の世界になってしまった事で
「昔、そんなに推しが推しがって言ってた?世界観含めた物が全部好きなんで」
「その作品に対する考察とかを含めた部分が好き」
という人らは違和感を感じるようになってしまったかもしれない。
なぜなら、信仰というのは「絶対に別の信仰、信条を許さない」
という特性があるんですよ。
そして必ず、同調圧力を持ってなんぼなのです。
自分はどうも素直に「推ししか目に入らない」というトランス状態になりにくい;
大人になってしまったなあと感じる事があります。
「推し」ありき、オマージュでなければならない場所で
もし「地雷」「加害者」になったらどうしようと…
確かに推しはいる、好きではある
けれども、命をかけて愛せるほどのピュアだった時代に戻れず;
もどかしい;
ああーそんなもな描けねえよ…ってなる。
(尊敬して言ってるのです。伝われ)
でもね、もうそういう事は気にせず
多少、はみ出ていても、自分なりにやっていこうと思ってます。
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