ヴィクトル・ユーゴーの作品を読みまして。死刑廃止を求めるフランス人作家が作品に込めた、怒りのメッセージ、強烈に感じました。
今はどうか全く知らないんですが
自分が物語作りに興味を持って
大学で創作概論を学んだり
集英社のセミナーに参加したりしていた頃、
物語というのは変化であり
起承転結を辿り、何かしら読み手に訴えるものを盛り込む、というかんじでした。
ところが、この理屈はある時から、
私を悩ませる事になりました。
同人誌「やおい」(BLの意味でなく)
その場所では
物語がポストモダン手法を取る
山もオチも意味もない、むしろ詩のように、感覚的に特化していればよい
だとすると
自分のやり方は通用しない。
ていうか、むしろウザいのでは…。
世界観から好きでなく、キャラやカップリング推しに特化した好きを生産消費する場所と化した二次創作界隈は、
今はよりその度合いは強いかな、と思います。
こういった場所では、自分の伝えたい事よりは、形式(トレンド)や教義(原作解釈)が重要で
一種のアカデミズムみたいなものかも。
(補足しますが、絶対に2次創作をどうこうは言いません。
むしろ人生で二次創作の占める割合の方が多かった位だから
誤解されませんように><)
そもそも、ストーリーとは何か。
メッセージがあるなら直接言えばいいじゃないか。
テーマとは何か。
私がどう思ったか、なんて読者は必要なんだろうか?
ニーズがひたすらカワイイカッコイイの場所で、それで繋がりたいなら、カワイイカッコイイ以外は不要なのではないか…。
セリフに何か意味のようなものを盛り込んで、意図的であるものを
日本人は好まないのではないか…
テーマ、みんなに考えてほしい意を含むというなら、疲れて考えたくない人にまでそれを要求するのか?
なんとなく別にイミはない、癒しを見せて行くのが最も大事なんではないか…
なんて…
そんな事ばかり考えていたら
ある時、何をどうしたらいいか、すっかりわからなくなりました。
単に忙しすぎて頭回らなかったのかもしれませんが
頑張ろう、次は頑張ろうと思いすぎて
頑張っても頑張ってもダメ状態で
完全に道が見えなくなりました。
そんな時丁度、広告で倉科遼先生と原作コラボになって
ああそうだった、こんなかんじでいいんだ、とずいぶん助けられた気がします。
いやもう、何かは伝わればいいのではないかと。
例えどこかに、このやり方が今時だの
こうしないとダメだの、アドバイスする人がいたとしても
まずは自由にやってもよい、失敗してもよい、
とにかく、そこからもう一回立つ練習
してみようか、というかんじでしたか。
うまく伝わらないのかもしれませんし、
言いたい事は雲のように厚い情報の多さの中で消えてしまうかもしれません。
でも
それがテーマであれメッセージであれ
もちろん、感覚であれ
何か届いたらいいやと。
そんなかんじでやっています。
必要なのは、素直でいる事なんでしょう。
感覚に対しても、考えに対しても、です。
その素直さに基づいて創作した時に
誰かに何か言われても、数の力を持てなくても、自分を否定しないでいるのは大事です。
そして、
世の中にどんな作品が溢れていようが
この方法でよい、と自信を持ってやるには、自分で自分にベストな方法を生み出していくしかないのかもしれません。