西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

金沢市立野田中学校同窓会会報3号より

2009-11-29 | 金沢の思い出
金沢市立野田中学校同窓会から会報第3号が送られてきた。創立60周年にあたって少しの募金をしたお礼も書いてあった。

私が野田中を出たのは1957年(昭和32年)だから、もう52年前になり、8期生である。8期生の幹事は4人、男女2名づつだが、女性は、姓が変わったのか、良くわからない。男性2名は二人とも顔を思い出す。

会報の中で、8期生の西田正彰君が3年7組のクラス会(担任は小坂成敏先生、故人)の様子を書いているが、その写真を見て、高校(金大付属高校)でも同期だった広瀬鉄之介君がいつもの「にこにこ顔」で写っているのを見て、「彼は7組だったんだ」と認識した。私は9組(新谷善治先生)だった。当時の校長は二代目のロマンスグレーの紳士・多々静次先生だった。

そして、当時の野田中の校下は現在と少し違い、十一屋(町)小、菊川小、新竪小、富樫小だったと記憶する。犀川をはさんで南側(左岸)の十一屋(私の校下)、富樫と北側(右岸)の菊川、新竪(広瀬君の校下)に分かれていた。

野田中は当時、金沢随一のマンモス校で3年は17組(1~3組が就職クラス、以下17組まで進学クラス)、全校で生徒2千人を優に超えていた。

懐かしい記事を見ながら、早く、『金沢時代の18年』をまとめねば・・・、と思った。