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アメリカからペリー率いる黒船がやってきた。長州藩士桂小五郎(谷原章介)とともに黒船を間近にみた龍馬はその大きさに仰天、驚愕。「あの船に比べれば剣など縫い針同然だ」と道場での稽古に身が入らない。
自分はどのあたりの龍馬から知っているのだろうと考えてみると、これまでみた大河ドラマはじめいろいろな時代劇では、西郷隆盛や勝海舟、新撰組の近藤勇や土方歳三などと互角にわたりあう、既に堂々たる風格をそなえた龍馬であったことに気づく。
今回の『龍馬伝』では、ごく普通の若者が時代の波にもまれて成長していく様子を描く点に特徴がある。広い世の中を知りたい、剣の腕を磨きたいと希望に溢れた若者が、異国の船のあまりの巨大なることに恐れおののき、「自分は何をすればいいのか」と思い悩む。
剣術修行に疑問を抱き、佐那(貫地谷しほり)に諌められても、迷いを師匠(里見浩太朗)に見抜かれて「何のために修行をしているのかわからない」と本音を叫んでしまう。道場から出て、家族の期待を一身に受けて故郷を旅立つときのことを思い出して、自責の涙にくれるさまは、のちに薩長同盟や海援隊の設立などを成し遂げた人とは思えないほどだ。さきを知っているとはいえ、心配になってくる。福山の演技は意識的なのかどうかはわからないがぜんたい的にまだ時代劇に不慣れで不安定なところが感じられ、それがいまの若い龍馬には合っていると思う。
向田邦子の随筆集『父の詫び状』のなかに「お軽勘平」という一編があり、 次のような一節がある。「『人間はその個性に合った事件に出逢うものだ』という意味のことをおっしゃったのは、たしか小林秀雄という方と思う。さすがにうまいことをおっしゃるものだと感心をした。私は出逢った事件が、個性というかその人間をつくり上げてゆくものだと思っていたが、そうではないのである。事件の方が、人間を選ぶのである。」
黒船来航という前代未聞の大事件が(しかし徳川幕府250年の太平の歳月を経て、来るべくして来たものであるとも考えられる)、まだ海のものとも山のものともわからぬ坂本龍馬をいう若者を選んだのだ。襲ったといってもよい。黒船をみてショックを受けるというのは当時多くの人共通のリアクションであろう。しかし自分ひとりが悩んでもいたしかたないことと流さずに、今回の龍馬にしても桂小五郎にしても、あの巨大な黒船=外国とどう戦うか、あるいはつきあうかにまで考えを及ばせ、その場合自分はどうしたらよいのかを必死で考える人は案外少ないのではないか。やはり「事件の方が、人間を選ぶ」のかもしれない。さあ次週はいよいよ吉田松陰との出会いという事件が龍馬を待っている。
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