きっかけは「春風亭一之輔十日間連続落語生配信」である。第一夜を視聴し、友人とその話をしたところ、神田伯山の「中村仲蔵」を勧められた。実は寄席にまだ一度も訪れたことがなく、講談に至っては、講談協会オフィシャルウェブサイトなどを覗いて勉強を始めたばかり。張り扇は売っていないのか…。
初代中村仲蔵は「仮名手本忠臣蔵」五段目の斧定九郎を独自の造形で披露した伝説的な歌舞伎役者である。2000年、松井今朝子の『仲蔵狂乱』が市川海老蔵(当時新之助)の仲蔵役でテレビドラマ化された。20年後の仲蔵役で、父の團十郎も出演している。また九代目松本幸四郎(現白鴎)が立ち上げた梨苑座第1回公演において、荒俣宏の原作を九代琴松の名で自ら演出した「栄屋異聞伝来~夢の仲蔵」が上演されている(続いて2003年「夢の仲蔵千本桜」も上演された)。
「血のない役者」つまり有力な歌舞伎俳優の御曹司ではない仲蔵が、端役から次第に頭角を現し、周囲の嫉妬など逆風に折れそうになりながらも斧定九郎の造形を一心に工夫し、成功を収める物語である。伯山の講談は、血を吐くような仲蔵の苦闘のさまよりも、初日の舞台と客席の様子の語りにいっそう熱がこもる。鎮まりかえった客席の様子に、「蹴られた」(受け入れられなかったの意であろうか)と思った仲蔵は着替えもそこそこに小屋を飛び出し、町をさまよう。しかし見巧者らしき老人が、知り合いの若い者に「いい芝居だった。あんな定九郎を初めて観た。あいつはこれからどんどん伸びる。あいつの20年後、30年後をおめえが見届けてくれ」とむせび泣き、若い者が「よし!おれも観に行く」と手を取り合うのを見る。
「中村仲蔵」は役者の芸譚であると同時に、いい芝居、伸びゆく役者をずっと見続ける観客の喜びのさまがたっぷりと語られ、胸が熱くなる。嬉しくなってネット検索し、三遊亭圓生や古今亭志ん朝、三遊亭円楽の高座を聴いてみた。導入部のみならず、本編の真っただ中にさえ時事ネタを入れたり、個々の台詞やカットされる場面もあるなど、噺家それぞれ異なり、観客には誰それの「中村仲蔵」という意識を以ての鑑賞が必要と思われた次第である。
「仮名手本忠臣蔵」を観るとき、どの役者が大星由良助や勘平、おかるを演じるのと同じくらい、五段目の斧定九郎を今回の座組は誰が演じるのかと、観客に楽しみを与えてくれる。定九郎の「中の人」の物語によって、その楽しみはいっそう味わい深いものになるのである。
それにしても、江戸時代「芝居」は市井の人々にとってホントに身近な存在だったんですねぇ。
役者が芸を継承するように、ご見物衆も、これまで観てきた芝居や贔屓の役者のことを語り合い、共有し、これからを托していたのですね。
神田伯山の「中村仲蔵」は
何回聞いても素晴らしいですよね。
これは俳句にも他の芸術にも通じることと思っています。
当ブログへのお越しならびにコメントをありがとうございました。「中村仲蔵」は、俳優論でもあり、観客論でもありますね。
しばらく「仮名手本忠臣蔵」を観ておりませんが、初めて仲蔵の定九郎を観たご見物衆のことを想像しながら味わいたいと思います。