因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

映画『シアトリカル 唐十郎と劇団唐組の記録』

2024-12-14 | 映画
*大島新監督 公式サイトはこちら 東中野ポレポレ 28日まで その後全国で公開
 2007年に公開され、第17回日本映画批評家大賞のドキュメンタリー賞を受賞し、その年の「ぴあ満足度ランキング」1位を獲得したドキュメンタリー映画が唐十郎追悼により17年ぶりに再上映の運びとなった。ゆかりの方々が大島監督と語り合うアフタートークも充実の2週間である。カメラは2006年の11月から、翌2007年の年明け、劇団唐組春公演『行商人ネモ』の稽古から4月下旬の大阪公演までの唐十郎と劇団員の日々を追う。同監督の作品は、衆議院議員の小川淳也と周辺の人々を17年に渡って密着した長編ドキュメンタリー『なぜ君は総理大臣になれないのか』(2020年公開)、続く『香川1区』(2021年公開)を鑑賞したが、この『シアトリカル』には明らかに違う手つきがある。

 それは大島監督が「情熱大陸」で唐十郎を取り上げた際、「本質に迫れていない。撮り足りない」と初めて感じた人物であったこと、「唐十郎は唐十郎を演じているのではないか」という疑惑を解き明かしたいという情熱、執念である(映画のチラシ「追悼上映に寄せて」に記載あり)。

 本作はDVDでおそらく30回以上見ているはずだが、懐かしさよりも新鮮な驚きが優った。ドキュメンタリーなのだから、「カメラに捉えたものはすべてほんとうにそこで起こったことだ」と思いつつ、作品の最後に「この映画はおよそ7割のドキュメンタリー【現実】とおよそ2割のドラマ【虚構】で構成されている/残りのおよそ1割は虚実不明である」という字幕を何となく受け止めたというか、思考が停止していたのである。リバイバル上映初日の14日は劇団唐組の俳優・演出家・座長代行の久保井研がトークに登壇し、そのあたりの「実情」を知ることになった。

 リバイバル上映を記念して復刻された公式パンフレットには、「上映前には読まないで」というページがある。そこには上演台本ならぬ、撮影のために創作したいくつかの場面についての大まかな台本があり、「2割の虚構」について明かされている。DVDを鑑賞した知己から「あの場面、嘘っぽい」、「劇団員が作っている感じがする」という感想を聞いても自分にはそう見えなかった。あれが、あそこも虚構だったとは。自分の見る目の鈍さを思い知ると同時に、「してやられた」、「やっぱり唐さんだからな」と気持ちよく、トークにおいて大島監督が「創作の場面では唐さんがいちばん自然でしたね」というコメントにも納得できたのである。これは決して「やらせ」ではなく、まさに映画のタイトルの通り「シアトリカル」=「演劇的な、芝居じみた」唐と劇団員たちの日常の生のすがたを記録したドキュメンタリーであると思う。監督と被写体がいわば喜ばしい共犯関係となったわけで、DVDを見たわたしは見事に騙されてしまったわけだ。

 酒宴の場で(これはリアル)、酔った唐に激しく罵倒される稲荷卓央がうちひしがれる様子には胸が痛む。舞台創造の場におけるハラスメント対応や防止についての認識が高まり、さまざまな取り組みがなされている令和の時代にはできないことであろう。過去に本作を見て、「唐が声を荒げる場面は苦手だ」という声をいくつも聞いた。その一方で、藤井由紀がミシンを乗せたリアカーを曳く動作を、「由紀ちゃん、そうじゃないよ」と何度も自演してみせる唐の姿勢や動きは実に理にかなっており、思わず見入ってしまう。何より唐十郎の目の輝きと笑顔の何とすばらしいこと!あの笑顔を見たいからがんばれる。そんな気持ちになるのではないだろうか。

 残りの虚実不明のおよそ1割は、唐十郎という稀代の演劇人と、彼を知った者のあいだに生まれる何かではないだろうか。わたしが唐十郎と唐組の紅テントの舞台を知ってから、ようやく10年であるが、虚実不明の1割は確実にわたしの心に生まれ、日々変容し続け、いつか新たな劇世界を完成させる、いや逆に破壊してしまうのかもしれない。確実でありながら不確かでもあること。「無い」けれど、「ある」世界。もっと知りたいから、わたしは紅テントに通い続ける。
大島新監督と久保井研


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