因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

名取事務所25周年記念公演 『灯に佇む』

2021-09-29 | 舞台
*内藤裕子作・演出(昨年の舞台1,2,3) 公式サイトはこちら 下北沢・小劇場B1 10月3日まで
 独自の視点で作品を選び、盤石の座組で毎公演良質の舞台を生み出している名取事務所だが、このたびの公演案内の文面からは、いつにも増してプロデューサーである名取敏行の熱意、というより強い責任感と義務感に突き動かされての企画であることが伝わってきた(これは公演の当日パンフレットに「アフタートーク・プレトークの参考までに」として掲載されている)。

 きっかけは、丸山千里医師が開発、申請してから40年以上を経てなお厚労省の中央薬事審議会からの認可がおりない「丸山ワクチン」の接種を切望する知己からの電話であったこと、名取の実家が医院で丸山ワクチンを扱っており、日本医科大学付属病院を訪れてワクチンをもらい、実家に届けるアルバイトをしていたこと、この薬を得るために多くの患者やその家族が強いられている理不尽に怒りを覚えたことなどが綴られている。プレトークには名取みずからがマイクを握るなど、大変な熱の入れようである。これは只事ではないぞ。思わず背筋が伸びた。

 地方の小さな医院が舞台である。土曜日の午後2時を過ぎて、ようやく元院長篠田秀和(田代隆秀)の診察が終わったところだ。患者の話をとことん聞き、丁寧な診察をするせいで、長時間のわりに患者数をさばけない。ベテラン看護師の津山(鬼頭典子/文学座)や、秀和の娘で看護師の真由美(谷芙柚)は嫌な顔ひとつしないが、経営者肌の息子で現院長の宏和(加藤頼)からは始終文句を言われている。待合室には製薬会社MRの野原(歌川貴賀志)が診察の終わるのを待っている。そこへ町村(山口眞司)が訪ねてきた。医院の皆の驚きようから、わけありのようだ。

 「丸山ワクチン」が企画のきっかけとなり、重要なモチーフであるのだが、名取プロデューサーの熱意を受けた内藤裕子は、患者家族の会や丸山医師の家族、医療関係者への取材を重ね、医療方針、経営方針の異なる父と息子、丸山ワクチンによる治療を巡って対立する患者の親子という確執を軸に、人間の尊厳ある生、そして死とはどういうものかという壮大な課題に迫る作品を生み出した。

 丸山ワクチンのどのような点が効果的なのか、にも関わらず認可されない医療界の裏事情など、劇中には情報がみっしり詰め込まれている。当日配布された医療専門用語集や名取プロデューサーのプレトークを以てしても、理解するには質も量も半端ではない。そこに登場する大いなる助け手がMRの野原である。医療品の情報伝達と自社の医薬品の副作用報告の収集がその仕事であり、医師はじめ医療現場との意思疎通が欠かせない。劇中しばしば野原はさまざまな事情を客席へ向かって解説する役割を持つ。
 内藤作品においてはgreen flowers(グリフラ)の『かっぽれ!』シリーズで前説を担当するのが歌川演じる今今亭吉太であった。思わず「待ってました!」と大向うしたくなるほど軽快な語り口で客席を温め、これから始まる舞台への期待を高めてゆく。この歌川の資質と経験値を背負ってのMR野原役は、おそらく今回の登場人物のなかでもっとも台詞が多く、しかも専門用語や数字が満載である。

 内藤は朝日新聞のインタヴューで「役者さんが私の書いた戯曲を超えていってくれる」と語っているが、それはやはり劇作家の思いを俳優がしっかりと受け止めているゆえであろう。

 翻訳劇以外での田代隆秀を見るのはこれが初めてかもしれない。シェイクスピアシアター時代、『十二夜』でマルヴォーリオを散々にやりこめるサー・トービーを痛快に演じていた舞台は今でも記憶に鮮やかだが、心優しい老医師役の何と温かいことか。父親譲りのさわやかな美男子ぶりの加藤頼が、金にうるさい院長役とは意外であった。医療ドラマに必ず登場する嫌味でえげつない医師や事務方のような「あるある」かと思いきや、繊細で複雑な面を垣間見せ、そう簡単に父と和解しない点もむしろ好ましい。ベテラン看護師津山役の鬼頭典子は、『みえないランドセル』(山谷典子作 藤井ごう演出)での助産師役が記憶に新しい。確かな技術と温かなで誠実な心を持った職業人を演じるとこの方は天下一品。NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」に登場していただきたいほどである。今回は物語に重要な影響を及ぼす役割で、やや説明的な台詞が多いのは致し方ないだろうか。しかし鬼頭典子の立ち位置がぐらつくことはない。そして町村役の山口眞司は、妻を病気で亡くしたことがもたらした秀和医師との確執、息子(岩崎正寛)との対立を抱えた複雑な役柄を丁寧に、あざとくなく演じ、用語集やプレトーク、冒頭から次々に情報が発せられる物語に「ついていく」ことに前のめりになってしまう観客を立ち止まらせ、舞台の空気を鎮める役割を果たしている。

 さきほどから「情報」という言葉を幾度も使っていることに気づく。専門用語や数字、登場人物たちの相関関係や背景など、怒涛のように押し寄せる印象は否めない。町村の妻が亡くなったいきさつなど、聞き漏らしたところがあると思う。「自分の情報処理能力が追いつかない」感覚に囚われかけそうになった。

 しかし、目の前の舞台は「情報」ではないのだ。血の通った人間であり、その人間による出来ごとなのである。従って、それらは「処理」するものではない。そう思えたとき、『灯に佇む』はいっそう確かな手応えとなって、心に刻まれた。国民の2人にひとりが癌に罹患し、3人にひとりが亡くなる時代である。「只事ではない」という観劇前の緊張感は、「他人ごとではない」という実感に変わった。いつ自分が、自分の家族が同じ状況になるかもしれない。そのとき、この舞台のことを思い出したい。「情報」ではなく、生きて死ぬ人間の体温と肉声として。
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