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因幡屋ぶろぐ

劇評かわら版「因幡屋通信」主宰
宮本起代子による幸せの観劇記録。
舞台の印象をより的確により豊かに記せますよう・・・

しずくまち♭『しびれものがたり』

2007-11-13 | 舞台
*ナカヤマカズコ作・演出 園田優作曲・編曲 公式サイトはこちら 麻布 die pratze 公演は11日で終了
 雨の夜、緑色の外階段をあがって劇場に着く。舞台下手の角にピアノ、ヴァイオリン、ベース、ドラムなどがある。舞台にはチラシと同じような可愛らしい「お家」風のセットが左右に作られており、音楽の生演奏付きで繰り広げられる童話のようなお話かしらと想像した。

 どこかの小さな町。戦争のあとらしく、町にはほとんどが女子供ばかりである。「マザータウン」という都市がこの町を支配しており、物資はすべてここからの配給で、指令ひとつで物語を読むこともお酒、お茶を飲むことすら禁じられたりする。町の目下の話題は、からだの一部が痺れて感覚を失う症状が次第に多くの人々に広がっているということだ。古本屋のあるじ(関野三幸)は指の感覚がなく、本のページの手触りも妻(泉澤尚子/スペースU)の温もりも感じられない。定食屋のおかみ(伊藤美紀)は味覚が痺れてしまい、夫とのなれそめになった肉じゃがの味を作るのに必死である。やがて町に「代理人」となのる男(田坂和義/ハグハグ共和国)がやってきた。彼は痺れてしまった人のからだに触れて、その人がほんとうは感じているはずの感覚を言葉にする技を伝授しようとする。

 優しくゆったりとした舞台を想像していたら、感覚が麻痺していく症状といい、マザータウンという姿の見えない支配者の存在といい、古本屋のあるじには過去に愛人(田中あやこ)がいたり、ラジオ番組のDJ先生(ナカヤマカズコ)と代理人が実は深いつながりがあったり、マザータウンからの物資の中に女(岡島仁美)が入っていたり、サスペンスの要素も加わって容易に展開が読めない。

 すべてにおいて敏感では辛い。逆にあらゆることに鈍感であったらこれまた人生は味気ないだろう。ある部分が「痺れる」のは、そこが何かを主張していること、自分はちゃんと存在していると訴えていることではないだろうか。古本屋のあるじは妻と愛人両方への思いに引き裂かれて、相手に触れる指先が痺れてしまった、定食屋のおかみは、戦争に行ったまま帰ってこない夫への愛情のあまり、舌が痺れるのではないか。感じすぎては生きていけない、しかし感じることが生きる歓びの証でもある。『しびれものがたり』は、権力に支配され重苦しい生活を強いられつつも、日々を大切に生きようとする人々を描くと同時に、現実を生きるわたしたちに自分の心の奥底の声に耳を傾けることを控えめに説いているように感じられた。ごまかしていたり、逃避している部分にこそ、ほんとうの気持ちがある、それを素直に感じ取ってみよう。そんな気持ちにさせられる。

 わりあい自然な演じ方をする人がいる一方で、役柄にせよ、いささか(あまりいい意味でなく)新劇風の台詞まわしが気になる人もあった。チラシには「近未来」と書かれてはいるが、この町はマザータウンによって過去に逆行させられているようにも見えるし、携帯電話で話す場面があったり、「インターネット」という台詞が出てくる(少し記憶があやしい)ことが少し残念に思えた。ストレートプレイに生演奏がつく場合、演奏者と演じる俳優の空気に温度差があるといかにもとってつけたようになるが、本作はDJで流れる音楽という設定もあって違和感ない。カーテンコールのあと客だしの1曲が演奏された。終わって腰を上げたらベートーベンのピアノソナタの、あれはたしか『悲愴』の第2楽章が静かにはじまって「もっと聴いていよう」と座り直した。演劇と音楽を融合させて新鮮な舞台を作る「しずくまち♭」、次はどんな物語が紡がれ、どんな音が聞こえてくるのだろう。

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