結果的には、その翌週から卓球部の練習に参加した。
小生の学校は関東学生リーグの5部(1部から6部まであった)の上位で、もう少し戦力が整うと4部でやっていけるくらいの実力だった。
小生は、理科系単科大学で関東学生リーグ5部の卓球部をなめていた。
ところが、富岡さんと沖田さんは高校の同級生で東京都のダブルスで優勝したことのある選手だった。他にも県大会で上位の人が何人かいた。
試合してみると、勝てない人がいる。
結構、上手い人がいるのに、何で5部なの?と不思議に思った。
理由は入部して1週間もすると理解できた。
練習に来ないのだ。
前キャプテンの小村さんと次に再会したのは、一ヵ月後の春のリーグ戦の会場だった。
ペコリと頭を下げる小生に、小村さんは「おー、お前か。期待してるぞ」と言っただけだった。
春は公式戦が多い。ところが、主力選手が試合に来なかったりして、ベストメンバーが組めないことも多かった。
チームの主力選手が化学実験があるとか必修科目があるとか、時にはバイトがサボれないとかいう理由で試合に来ないのだ。
そのような理由もあって、キャプテンは、必ず試合に来れる人が任命されていた。
少なくとも、関東学生リーグに名前が連ねてあることが最低限かつ重要なことなのだ。
思い返せば、あの人が来てれば、5部優勝、間違いないというリーグ戦が何度もあった。
これも、学業優先だから、しょうがないことだったかもしれない。
小生は入学式前に入部した経緯もあって、4月の公式戦から試合に出してもらった。これにはカラクリがある。
入学式前に主務の清原さんが、「お前、明日ひまだろう。代々木体育館行って、学連本部に書類を届けてきてくれ」と言われた。
「入学式前の私で大丈夫ですか?」と嫌がったが、先輩の命令だし、東京オリンピックの会場である体育館も見てみたかった。
「富岡さんが、お前も登録しとけって言うから、名前載せといたから」「それとリーグ戦の開会式も行ってきてな」と清原さんは言った。
詳細は関東学生連盟からの案内書に書いてあった。
リーグ戦の開会式は10時からとあった。
書類を届ける場所は岸記念体育会館だった。
翌日、中央線で新宿に出て、山の手線に乗り換えた。
原宿で降りて、駅員に体育館の場所を聞いて、明治神宮の入り口を右に見ながら渋谷方向の横断歩道橋を渡る。
まず、岸記念体育会館に書類提出。関東卓球学生リーグの受付で、「はい、ご苦労さま」と書類も見ずに受け取ってもらった。
入学前の小生の名前が一番下に書いてあって、ドキドキして損した。と思いながら、代々木第2体育館に向う。
入り口で学校の名前を言うと、「何部(ナンブ)?」と受付の人。
「5部ですが・・・」と小生が答えると、
「ああっ・・・観客席で見て参加してください」
この日は開会式に引き続き、専修大学対明治大学の開幕戦があると書いてあったので、この1部リーグの試合が、どんなものか見ておきたい。
開会式が始まった。1部の6チームと2部の12チームが入場した。
日本大学の高野を探したが・・・「いれば、でかいから分かるけどなぁ」日大の中には、それらしき選手はいなかった。
偉い人の挨拶などが済んだあと、コートに卓球台が一台あらわれ、試合が始まった。
そこで、初めて気がつく、観客席の半分以上の人が専修大学か明治大学の応援をしに来ていたのだった。
観客席前方は両校の応援部員で埋まっていたので、小生の席は卓球の観戦には遠すぎた。
「どうしよう。遠くて見えないな」と思いながら、とりあえずトイレに行こうと階段を上った。
代々木第2体育館はすり鉢状になっていて、トイレとか売店が観客席の後ろ側の通路にあった。
その通路に、ジャージ姿の学生が横一列に整列していた。
「何だろう」と30人ほどの列の前を横切ってトイレへ向う。
ジャージには慶応と印刷されていた。
先シーズンの秋まで1部であった慶応大学は入れ替え戦で大正大学に負けて、この春、2部に落ちていた。ということを、関東学連の冊子を中央線の中で読んで、つい先ほど知ったばかりだった。
「慶応って、2部なのか」と思いつつトイレへ。
トイレから戻ろうとした小生は、同じルートで観客席に戻れなかった。
小生が歩いてきたルートには、慶応の先輩と思われる5名ほどが、直立不動の学生と向かい合わせになって通路をふさいでいた。
困った小生は、少し離れた場所から観察した。
OBと思われる貫禄のある人がしゃべり始めた。
一語一句を覚えている訳ではないが、主旨はこうだ。
「長い慶応の歴史に君たちは泥を塗った。先輩たちに申し訳ない。これも君達の気合と根性が足りないからだ。死ぬ気で練習して、絶対に秋には1部に昇格し早稲田に勝たなければならない」
話は延々と続いた。
選手の前に立ったOBが順番に訓示した。2人目が同じ様なことを言って、3人目も似たような話と判明したころ、観客席への入り口を反対方向に見つけて、自分の席に戻った。
「良かった・・・ 慶応に行かなくて・・・」
間違えても、慶応の卓球部にいる訳もないが、つぶやいた。
私の知っている限りでは、この後、慶応が1部に昇格することはなかった。
2週間後、当校も春のリーグ戦が始まった。
初戦の相手は成蹊大学だった。対戦校5校の中で一番強いという前評判で、いきなり事実上の優勝決定戦だった。
この日のベストメンバーと思われる3年性、4年生のチーム編成で試合に出場した。
ところが、接戦だったが、負けてしまった。
7戦までもつれ込んだが、選手の粒が揃っていた成蹊は、7番目の選手もレベルが落ちなかった。
「昇格が早々になくなった」と判断した先輩たちが、応援に来ていたOBたちと昼間から宴会に行ってしまったので、小生たちにも出番が回ってきた。
成蹊大学以外はあまり強くなかった。
試合形式は6単1複(シングルス6人とダブルス1組)だ。
小生も5番手か6番手という気楽な順番に起用してもらい、全勝した。
相手のレベルが低いので当然だが・・・
2日間のリーグ戦の最終成績は4勝1敗だった。
もちろん、5戦全勝の成蹊大学が入れ替え戦に向うこととなった。
全勝した小生は、単純に調子に乗る性格だった。
「成蹊戦の初戦のエースと自分が対戦すれば優勝したはず」だと・・・
その2週間後、東京都国公立戦が学芸大で開催された。一回戦は外語大に快勝し、2回戦で東大と対戦した。この大会はベストに近いメンバー構成で挑んでいた。
東大には、勝ったことがないという。長い歴史、一度も勝った事がないらしい。
ところが、この試合は勝てそうになった。
東大側の有力選手が揃ってないのだ。
7試合があり、4試合先取した時点で勝敗が決まる。
なぜか東大はエースの望月選手が7番目に登録してあるが、準エースクラスのエントリーがなく、通常レギラーでない選手が前半戦に登録している。
こちらの実力をなめて、3回戦以降が行われる午後からレギラーは来るのかもしれない。
試合は拮抗した。3対2で東大がリードしていたが、6番手は小生が相手を圧倒していた。3対3に持ち込めそうだ。
ところが、いやに相手の試合のペースが遅い。
なにかにつけて、東大サイドのベンチに帰り、相談をしている。
「全然、試合進まないんですけど・・・?」小生は自分のベンチに言った。
久保さんが、ニヤニヤしながら言った。
「望月が到着してないんだよ」「東大、慌ててるな」
小生がこの試合に勝つと3対3となる。
次の試合、当校は長谷さんで、東大は望月選手なのだが、望月選手が学芸大学に到着していないようで、小生の相手が試合を引き伸ばしているようなのだ。
つまり、小生がこの試合を勝って、その時点で東大の7番目の選手が出場できないと当校が不戦勝となる。
当校にとっては、又とない快挙だ。
意味を理解した小生は「早くしてください!」
天地がひっくり返っても学業では勝てない東大の選手に卓球台に付くように督促した。
相手は4年生だったが、1ポイントごとにベンチに帰り、タオルで汗を拭く。
小生は入学したばかりの1年坊だが、「何やってるんですか?早く台について!」
文字通り、ここぞとばかりに、上から目線で督促した。
東京大学というタイトルを持つ人が、卑屈に小生に謝る姿を見た、人生で唯一の光景であった。
実に残念なことだが、その後の小生の人生が、この手の人たちに頭を下げ続けることになったのは、皮肉なことである。
試合の終わりが近づいたころ、やっと急に相手がベンチに行かなくなった。
望月選手が到着したのだった。
7番目のファイナルの試合は、あっさりケリがついた。
東大の望月選手は、1部リーグの選手に引けを取らない実力の持ち主だった。
長谷さんは見せ場を見せることが出来ず、あっさり敗退した。
翌日、東京大学と東京教育大学(現筑波大学)の決勝戦を観戦した。
負けはしたものの、東大は教育大に善戦した。
東大は昨日のメンバーとは、がらりとレギラーが入れ替わっていて、私が対戦した4年生など出場する余地もなかった。
個人戦では、望月選手が教育大のエースに競り勝ち、優勝した。
所詮、われわれ規模の学校の運動部が、全国から強い学生を入れて本格的に運営している学校に勝てるはずがない。
ましては、当校は理科系の単科大学であり、絶対的人数も少なく、当然ながら学業優先で、練習はもとより、試合すら来れない人も多かった。
言ってみれば、練習や試合にフルに参加できる人は学業をおろそかにしていた。
しかしなぜか、小生にとっては、この学校の卓球部は居心地が良かった。
そもそも学業優先で大学に来た訳でもなかった。
もちろん落第は、したくないが、成績優秀で卒業する必要など微塵も感じていなかった。
偶然が重なったにせよ、折角、都会に出てきたのだから、学校以外にも、なにかあるのでは、との期待が大きかった。
卓球部の先輩は個性が強いが、頭のいい親切な人ばかりだった。
私の人生の方向は、この4年間の卓球部の中で決まっていった。
つづく
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