賀名生(あのう)は、奈良県五條市(旧吉野郡西吉野村)の丹生川沿いにある集落で、南北朝時代に、南朝(吉野朝廷)の首都となった歴史を有しています。(^。^)
時は室町初期、1347年正月に楠木正行が四条畷で戦死したのち、南朝では北朝方(室町幕府、足利軍)の来襲を防ぎ得ない状況にあることを知り、吉野を引き払って穴生(賀名生)に移りました。(^-^)
1352年、南朝の後村上天皇は北征軍を興し、山城国の男山(京都府八幡市)に移り都に睨みを利かせましたが、尊氏の子である室町幕府第2代将軍足利義詮はこれに対するために正平一統を破棄し、再び北朝を擁立しました。(^_^)
結局、北征軍は京都を奪還することができずに賀名生に帰りましたが、この時、北朝方の皇族(光厳上皇、崇光上皇、直仁親王)を拉致し、「三種の神器」をも押収したのです。(≧∇≦)
北朝方は天皇不在となったため、出家を予定していた弥仁親王を後光厳天皇として即位させ、南朝方は長慶天皇を経て後亀山天皇が践祚するに及び、1373年8月より再び賀名生を行宮としました。
以後1392年、南朝の後亀山天皇が京都に帰り、神器を北朝の後小松天皇に伝える、いわゆる南北朝合一までの20年間、賀名生は南朝の行宮だったのです。( ; _ ; )/~~~
幕末には、天誅組の吉村寅太郎がこの地を訪れ、行宮跡で「賀名生皇居」の扁額を書きました。
幕末には、天誅組の吉村寅太郎がこの地を訪れ、行宮跡で「賀名生皇居」の扁額を書きました。
また、現地には「南朝三帝賀名生皇居之址」の碑が建立されています。(ToT)/~~~
山深い賀名生の地は、南北朝、そして、維新の黎明期と、政争による哀しみを纏いながら、我が国の歴史にあってある種の異彩を放っています。( ^_^)/~~~
「北朝のまた南朝の哀しみや
皇居と仰ぐ賀名生の庵」
by 祖谷馬関