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我が心の俳句とか徒然 〜祖谷馬関〜

桂枝雀さんと技芸天

かつてNHK番組に「青春ノート」という番組があり、若者インタビュアーが有名人や芸能人から「幼少期や青春時代」の話を聞く、という設えで進行する内容でした。(^。^)

先日、この番組のプレイバック特集として録画していた「青春ノート〜桂枝雀」を観ました。(^-^)

1985年放送とありましたから、馬関がちょうど二十歳の頃、当の枝雀師匠は46歳、気鋭の爆笑王としてブレイクし、脂の乗り切った頃でした。(^_^)

番組では、本名・前田達としての生い立ちから桂米朝一門での修行時代までの話が中心でしたが、異色の経歴に驚く話が多かったですね。٩( ᐛ )و

まず、枝雀さんが中学生の頃にお父様が亡くなられ、家庭が困窮を極めたことから話が始まりました。m(__)m

家族の生活費を賄うために、ラジオやテレビの漫才コンテストで賞金を稼いだそうです。それも、実弟とコンビを組んで、、、٩( ᐛ )و

ご本人が述懐されていたのが、「毎週勝ち抜くと賞金が増えるが、勝ち切って優勝すると、コンテスト卒業となるので、わざと落選して、もう一度、初戦から始めて、また賞金を稼ぐ」という戦法だったそう。(_ _).。o○

貧困のため、高校は定時制に進んだが、英語や国語の勉強が好きで、何と神戸大学の文学部に合格されたそうですが、その頃、桂米朝さんの内弟子となり、大学は一年で中退した、とのこと。(^。^)

稽古の虫で、赤ちゃんだった桂子米朝さんのお守りをしながら、ネタを覚え、掃除の途中でもネタを繰るので、掃除に気が入らずガラス戸を割ってしまったり、と、様々なエピソードを話しておられました。(^-^)

印象的だったのは、「自分は実務が下手で、真っ当な仕事には就けない、と子供の頃から感じていた」とのこと、、、それから、「決められた輪っかの中で努力したり、目標を定めて邁進するのが苦手」ともコメントされていました。(^_^)

逆に、「自分の輪っかがどこまで広がるか試したい」とか、「目標を決めないから、毎日最大限の努力をする、力の加減はできない」と断言されていました。(^。^)

だからこそ、芸の道を極めようとされたのですね。( ^_^)/~~~

この桂枝雀師匠、円熟期を迎えられた還暦の年、60歳で自らの命を絶たれたことは、今なお衝撃の事実ですが、「青春ノート」の端々に、その遠因が見え隠れしていたような気がします。m(__)m

「満月も足らずと言ふか技芸天」 祖谷馬関

(注)満月、名月、望月などは、旧暦八月十五日の月のこと。「名月をとつてくれろと泣く子かな」と一茶の句にもあるように、手を伸ばせば届きそうな大きな月である。団子、栗、芋などを三方に盛り、薄の穂を活けてこの月を祭る。

(注)技芸天とは、奈良県奈良市にある秋篠寺が所蔵する重要⽂化財「⽊造伝伎芸天⽴像」のこと。国内で唯⼀伝わる伎芸天像で、技芸に⻑けた天⼥である伎芸天は、諸芸成就・福徳円満の功徳が有るとされることから芸能関係、アーティスト、クリエイターからの篤い信仰を集めています。
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