副題は、「英軍管理下、通貨使用禁止」、「食糧不足、タピオカで補う」と書かれています。( ; _ ; )/~~~
シンガポールで敗戦を迎えた陸軍大将の板垣征四郎氏による書簡で、敵国の捕虜となった敗残兵たちの苦境が明らかになったそうです。(^。^)
終戦直後、東南アジアでは、70万人を超える日本軍将兵が連合軍の管理下に置かれ、様々な役務や尋問を強いられたと言われています。(°▽°)
なかでも、戦犯の事実を問う裁判は、現地人の証言のみに基づく判断で、一方的かつ杜撰なものであったと伝えられています。(^_^)
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実は、馬関の亡き祖父は、当時、陸軍大佐の地位にあり、高級参謀として、この南方第七方面軍下の第16軍に属していました。(^-^)
生前、祖父は、小学生の馬関を相手に、中国大陸でのスパイ活動やビルマ(現ミャンマー)での進軍など、戦時中の武勇伝をしばしば語っていました。(^。^)
東南アジア現地で終戦を迎えた祖父は、新聞記事同様に、チャンギーにある刑務所に送還されたそうです。m(__)m
捕虜生活については多くを語らなかった祖父ですが、没後、自宅から収容生活に関する手記が見つかり、馬関もその一部を読んだ覚えがあります。(^-^)
印象的だったのは、チャンギー刑務所に収容され、日中の辛い使役が終わると、独房に引き上げる。
明日も戦犯裁判があり、現地人に名指しされると自らの戦犯が確定する。
何もない独房の窓から明るい月が見えたので、隣の房に居る同僚に声を掛け、祖国の空もあの月が綺麗に見えるだろうか、と語らった、という場面でした。(^_^)
「独房の敗残兵や冬の月」 祖谷馬関
(注)「チャンギー刑務所」は、イギリスが作った監獄ですが、昭和17年日本がシンガポールを陥落させた後は、日本軍が監獄として使用。日本が敗戦すると、今度は、タイ、ジャワ、ボルネオなどから2,000名を超える日本のBC級戦犯の容疑者が集められ収容されました。
BC級戦犯に指定された人の逮捕や取り調べは杜撰なもので、一列に並ばせ「犯人は誰か」の問いに、虐待を受けたり見たりした人が指指すだけで罪に定められることもあったとか。チャンギー刑務所だけで129名が処刑されました。