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我が心の俳句とか徒然 〜祖谷馬関〜

保津川下りと道路元標

やはりこのブログには「予知能力」があるのか、、、(°▽°)

一昨日、3/28、京都の保津川で川下りの船が転覆し、激流に流された船頭が亡くなるという痛ましい事故が起こりました。m(__)m

実は、その日の朝、馬関ブログでは、春の季語「花筏」を用いて、悲しい別れの季節を思い、「万感を水面に集め花筏」という一句を詠んでいたのでした。( ; _ ; )/~~~

筏違いではあるものの、保津川で筏船が転覆したのは事実、、、偶然とは言え、俳句を詠むことを躊躇してしまうような出来事でした。!(◎_◎;)

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「道路元標」なるものをご存知でしょうか。(^。^)

日本の道路元標が国によって定められたのは、里程調査のための明治時代初期のものと、大正の旧・道路法施行令公布の時のものと、二つの時期にわたって道路に設置されたものがある。正確には、大正時代に設けられたものが「道路元標」とよばれるもので、明治時代に設けられたものは里程元標といい、大正期の道路元標の前身となるものである。これ以外に現在、一般国道などの起終点などで見ることが出来る道路元標は、昭和時代の太平洋戦争後に設置されたもので、その設置基準については法的な根拠はなく、道路の付属物の扱いで記念碑的なものとして建てられたものである。特によく知られるものに、東京・日本橋に設置された「日本国道路元標」があり、主要国道7路線の起点標にもなっている。(ネットより引用)

大阪市内の「高麗橋」という土地にも、この旧道路元標、当時の「里程元標」(写真)があります。(^-^)

江戸時代諸街道の起終点は、高麗橋であった。その後、道路法の制定で国道ルートの整備がされ、大正11年には現大阪市役所前に設置された。さらに昭和27年新道路法が成立(このとき、東京-大阪間国道2号が1号になった)、道路元標も現在位置に移設された。

高麗橋は、大阪城の外堀として開削された東横堀川に架かる橋で、慶長9年(1604)には擬宝珠(ぎぼし)をもつ立派な橋となっていた。
高麗橋筋には元禄時代から三井呉服店(三越百貨店の前身)や三井両替店をはじめ様々な業種の店が立ち並び、人々の往来が絶えなかった。そして橋の西詰には幕府の高札が立てられていた。
江戸時代に交通の要所など重要地点に架けられ、幕府が直接管理する橋を公儀橋と呼んだが、この高麗橋は公儀橋の中でも特に重要視されていた。
明治時代には里程元標がおかれ、西日本の主要道路の距離計算はここを起点として決められた。
明治3年(1870)にイギリスより輸入された鉄橋に架け替えられ、「くろがね橋」とよばれていた。現在の橋は昭和4年に架けられた鉄筋コンクリート製のアーチ橋である。欄干の擬宝珠や西詰にあった櫓屋敷を模した親柱が、橋の歴史を物語っている。(ネットより引用)

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さて、己の道の元標は何処か、、、今の自分はいつどこで形成されたのか、辿ってもなかなか見つからない、そんなものかもしれません。(^_^)

「我が道は此処より出づと雲雀鳴く」 祖谷馬関

(注)雲雀(ひばり)は春の季語。麦畑などに巣をつくり、春の空高く舞い上がって、一日中のどかに囀る。揚がる雲雀を揚雲雀、落ちる雲雀を落雲雀という。雲雀はスズメ目ヒバリ科の留鳥(北海道のヒバリは冬季暖地に移動する)で日本各地に広く分布する。雀よりやや大きく、褐色で黒褐色の斑があり、下腹は白っぽい。後頭部に冠羽をもつ。繁殖期に、野原や畑地などに皿型の巣を作り、三個から五個の卵を産む。雄は繁殖期に空中高く舞い、甲高く囀って縄張りを主張する。
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