近頃、「お笑い博物館」のような様相を呈して来ましたが、今日も懲りずに漫才コンビの紹介です。(^。^)
「はな寛太・いま寛大」
略して「寛太・寛大」と呼ばれてましたね。こちらも、馬関が小中学生の頃に大活躍された漫才コンビです。(^-^)
特に、寛大さんの繰り出す「ちょっと待ってね」のギャグが秀逸でしたね。( ^_^)/~~~
以下、ネットで検索しました。
ゆっくりとしたテンポとベタなネタ、わざと間を外したボケやツッコミが何とも言えないおかしさを誘う漫才スタイルが特徴で、島田紳助曰く「ヘタうま漫才」と評されていた。
漫才ブーム後は新作を演じることは稀であり、それが原因で松竹所属漫才師の中で遅れを取るようになっていたが、2003年の夢路いとしの死去によりいとし・こいしのネタの継承に併せて新作にも積極的に取り組むようになった。
漫才ブーム後は新作を演じることは稀であり、それが原因で松竹所属漫才師の中で遅れを取るようになっていたが、2003年の夢路いとしの死去によりいとし・こいしのネタの継承に併せて新作にも積極的に取り組むようになった。
はな寛太は、昭和38年松竹新喜劇の文芸部に入り、舞台台本を執筆。45年同僚のいま寛大と漫才コンビを結成、藤山寛美にはな寛太・いま寛大と名付けられる。46年東京・浅草の木馬館で初高座を踏み“ちょっと待ってね”のギャグで人気を集めた。その後、夢路いとし・喜味こいしの勧めで大阪に戻り活躍、平成4年道頓堀の寄席・浪花屋の舞台で開演中に結婚式を挙げ話題を呼んだ。16年芸術祭賞の演芸部門大賞を受賞した。
2007年、いと・こいの往年のネタ「親子丼」「ジンギスカン」を現在風に改作して継承、2代目いとし・こいし襲名話も進んでいたが、同年5月15日、寛太が食道がんのため死去したことにより解散した。
もっと世に出て良かったはず、、、そういう意味では、惜しいコンビです。( ; _ ; )/~~~
「寛大のギャグをど忘れ思案する
思い出すまでちょっと待ってね」
by 祖谷馬関