京都の街は条坊制で築かれ、碁盤の目のように通や筋が走っていますが、その区画内にもさらに小さな道路があり、袋小路の道は「路地」(ろーじ)、通り抜けることが出来るものを「図子」あるいは「辻子」(ずし)と呼ばれています。(^。^)
「膏薬図子」(こうやくのずし)は、四条通から綾小路通に抜ける狭い路地。新町通と西洞院通の間、新釜座町にあります。
平安時代、天慶の乱に敗れ討死した平将門の首は京において晒されますが、空也上人がこれを弔うため厨子を作られた場所が当地で、「空也供養の厨子」が訛って「こうやくのずし」になったと言われています。(^-^)
そのほか、紋屋図子(もんやのずし)、了頓図子(りょうとんのずし)、革堂図子(こうどうのずし)などが残っています。(^_^)
西陣の「紋屋図子」は、五辻通と上立売通の間、智恵光院通から大宮通へ東西に抜ける横路地。
当初は「聖天の図子」といい、昔は大宮通に抜けない袋小路でしたが、御寮織物司(紋屋)・井関七右衛門が私財を持って突当りの家を買い取り、路地を大宮通まで貫通させました。
紋屋図子には、御寮織物司「紋屋」と呼ばれた「三上家」があり、江戸期の職人長屋には陶芸家や写真家らが住み、観光客で賑わっています。(^。^)
次に「了頓図子」は、新町通から室町通へ向かって歩くと南北に走る細い道があり、現在では衣棚通になっていますが、かつて著名な茶人の屋敷があったことから「了頓図子(りょうとんのずし)」とも呼ばれています。(^-^)
さらに「革堂図子」は、上京区小川町武者小路下ル革堂町にあります。
茶道家元の本拠地で、その関連施設が集中して立ち並ぶエリアですが、革堂といえば寺町通沿いにある行願寺の通称。
行円開基の尼寺で、本尊は千手観音、西国三十三所第19番札所、洛陽三十三所観音霊場第4番札所。(^_^)
実は、行願寺(革堂)はかつてこの革堂図子の場所にありました。豊臣秀吉の都市計画のため、天正18年(1590年)に寺町荒神口に移転。さらに大火により、現在の場所・寺町通に移転したのです。(≧∇≦)
秋深まる頃、通り掛かりの路地を覗くと、夕映えの路上に遊ぶ子供らの声が聞こえたような気がします。( ^_^)/~~~
秋深まる頃、通り掛かりの路地を覗くと、夕映えの路上に遊ぶ子供らの声が聞こえたような気がします。( ^_^)/~~~
「覗き見ゆ膏薬図子に茜さす
童らの声宙に消えたり」
by 祖谷馬関