ルネ・デカルト (1596年3月31日 - 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者、数学者。 合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。wikipedia

真理の探求において
いささかでも疑わしいところがあると思われそうなものはすべて絶対的に虚偽なものとしてこれを斥けてゆき、かくて結局において疑うべからざるものが私の確信のうちには残らぬであろうか、これを見とどけなければならぬと私は考えた。
それとともに、私どもの感覚はややもすれば私どもを欺くものであるから、有るものとして感覚が私どもに思わせるような、そのようなものは有るものではないのだと私は仮定することにした。また幾何学上の最も単純な事柄に関してさえ、証明をまちがえて背理におちいる人があるのだから、自分もまたどんなことで誤謬を犯さないともかぎらぬと思い、 それまで私が論証として認めてきたあらゆる理由を虚偽なるものとして捨てた。
最後に、私どもが目ざめていて持つ思想とすべて同じものが眠っているときにでも現れる、かかる場合にそのいずれのものが真であるとも分からない。この事を考えると、かつて私の心のうちにはいって来た一切のものは夢に見る幻影とひとしく真ではないと仮定しようと決心した。
けれどもそう決心するや否や。私がそんなふうに一切のものは度偽であると考えようと欲するかぎり、そのように考えている「私」は必然的に何ものかであらねばならぬことに気づいた。
そうして「私は考える、それゆえ私はある」というこの真理がきわめて堅固であり、きわめて確実であって、懐疑論者らの無法きわまる仮定をことごとく束ねてかかってもこれを揺るがすことのできないのを見て、これを私の探求しつつあった哲学の第一原理として、ためらうことなく受けとることができる、と私は決断した。
私とは何であるか
次に、私とは何であるかを注意ぶかく検査し、何らの身体をも私が持たぬと仮想することができ、また私がその中で存在する何らの世界も、何らの場処もないと仮想することはできるが、そうだからとい。私が全く存在せぬと仮想することはできないこと、それどころではない、私が他のものの真理性を疑おうと考えるまさにこのことからして、私の存在するということがきわめて明証的に、きわめて確実に伴われてくること、それとはまた逆に、もしも私が考えること、 ただそれだけをやめていたとしたら、たとえこれよりさきに、私の推量していた他のあらゆるも
のがすべて真であったであろうにもせよ、私自身が存在していたと信ずるための何らの理由をも私は持たないことになる。
このことからして、私というものは一つの実体であって、この実体の本質または本性とは、考えるということだけである。そうして、かかる実体の存在するためには、何らの場所をも必要とせぬし何らの物質的なものにも依頼せぬものであることを。
心と身体は別個のもの
したがってこの「私」なるもの、すなわち私をして私であらしめるところの精神は身体と全く別個のものであり、なおこのものは身体よりもはるかに容易に認識されるものであり、またたとえ身体がまるで無いとしても、このものはそれがほんらい有るところのものであることをやめないであろうことをも、私は知ったのである。
デカルト「方法序説」第四部より
実体二元論

上はデカルト二元論とも呼ばれる実体二元論の論理図。実体二元論は魂、精神など様々な名前で呼ばれる能動性をもった非物質的な実体の存在を仮定します。これは古代ギリシアのパルメニデスやプラトンなどの伝統的な霊肉二元論を継承した哲学です。
またデカルト二元論には大前提があります。それは、「無からは何も生じない」との前提です。この前提と形式論理である同一律
aはaである
bはbである
を使っているのがデカルト二元論です。前提の中にすでに結論が入っているので同語反復です。そのように考えている「私」は必然的に何ものかであらねばならぬことに気づいた。の部分です。
カントからもトートロジーであるとか誤謬推理であると批判されています。
✻デカルトのいわゆる推論なるもの、即ち《cogito, ergo sum (私は考える、故に私は存在する)》は、実は単なる類語反復にすぎない。《cogito(私は考える)》は、《sumtans (私は考えつつ存在する)》であり、現実の状態をそのまま表現したものだからである。
カント「純理 第二誤謬推理》
実体二元論は弁証法で考えると理解しやすくなります。


「互いに反するものの合一」であるとか「主観と客観の合一」などと難しく考えず、ただ人間を内面的なものと外面的なものに分けたものだとみなすのです。


これを三段論法に使ってみると、
・大前提
人間は存在する。
・小前提
・小前提
私は人間である。
•結論
ゆえに、私は存在する。