二つに見えて、世界はひとつ

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われ思う、ゆえにわれあり

2025-03-18 19:41:00 | 日記

ルネ・デカルト (1596年3月31日 - 1650年2月11日)は、フランス生まれの哲学者、数学者。 合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られる。wikipedia



真理の探求において

 いささかでも疑わしいところがあると思われそうなものはすべて絶対的に虚偽なものとしてこれを斥けてゆき、かくて結局において疑うべからざるものが私の確信のうちには残らぬであろうか、これを見とどけなければならぬと私は考えた。

 それとともに、私どもの感覚はややもすれば私どもを欺くものであるから、有るものとして感覚が私どもに思わせるような、そのようなものは有るものではないのだと私は仮定することにした。また幾何学上の最も単純な事柄に関してさえ、証明をまちがえて背理におちいる人があるのだから、自分もまたどんなことで誤謬を犯さないともかぎらぬと思い、 それまで私が論証として認めてきたあらゆる理由を虚偽なるものとして捨てた。

 最後に、私どもが目ざめていて持つ思想とすべて同じものが眠っているときにでも現れる、かかる場合にそのいずれのものが真であるとも分からない。この事を考えると、かつて私の心のうちにはいって来た一切のものは夢に見る幻影とひとしく真ではないと仮定しようと決心した。

 けれどもそう決心するや否や。私がそんなふうに一切のものは度偽であると考えようと欲するかぎり、そのように考えている「私」は必然的に何ものかであらねばならぬことに気づいた。

 そうして「私は考える、それゆえ私はある」というこの真理がきわめて堅固であり、きわめて確実であって、懐疑論者らの無法きわまる仮定をことごとく束ねてかかってもこれを揺るがすことのできないのを見て、これを私の探求しつつあった哲学の第一原理として、ためらうことなく受けとることができる、と私は決断した。

 私とは何であるか

次に、私とは何であるかを注意ぶかく検査し、何らの身体をも私が持たぬと仮想することができ、また私がその中で存在する何らの世界も、何らの場処もないと仮想することはできるが、そうだからとい。私が全く存在せぬと仮想することはできないこと、それどころではない、私が他のものの真理性を疑おうと考えるまさにこのことからして、私の存在するということがきわめて明証的に、きわめて確実に伴われてくること、それとはまた逆に、もしも私が考えること、 ただそれだけをやめていたとしたら、たとえこれよりさきに、私の推量していた他のあらゆるも のがすべて真であったであろうにもせよ、私自身が存在していたと信ずるための何らの理由をも私は持たないことになる。

 このことからして、私というものは一つの実体であって、この実体の本質または本性とは、考えるということだけである。そうして、かかる実体の存在するためには、何らの場所をも必要とせぬし何らの物質的なものにも依頼せぬものであることを。


心と身体は別個のもの

 したがってこの「私」なるもの、すなわち私をして私であらしめるところの精神は身体と全く別個のものであり、なおこのものは身体よりもはるかに容易に認識されるものであり、またたとえ身体がまるで無いとしても、このものはそれがほんらい有るところのものであることをやめないであろうことをも、私は知ったのである。

デカルト「方法序説」第四部より
 
  実体二元論

上はデカルト二元論とも呼ばれる実体二元論の論理図。実体二元論は魂、精神など様々な名前で呼ばれる能動性をもった非物質的な実体の存在を仮定します。これは古代ギリシアのパルメニデスやプラトンなどの伝統的な霊肉二元論を継承した哲学です。

 またデカルト二元論には大前提があります。それは、「無からは何も生じない」との前提です。この前提と形式論理である同一律
  aはaである
  bはbである 
を使っているのがデカルト二元論です。前提の中にすでに結論が入っているので同語反復です。そのように考えている「私」は必然的に何ものかであらねばならぬことに気づいた。の部分です。

カントからもトートロジーであるとか誤謬推理であると批判されています。

✻デカルトのいわゆる推論なるもの、即ち《cogito, ergo sum (私は考える、故に私は存在する)》は、実は単なる類語反復にすぎない。《cogito(私は考える)》は、《sumtans (私は考えつつ存在する)》であり、現実の状態をそのまま表現したものだからである。
カント「純理 第二誤謬推理》


実体二元論は弁証法で考えると理解しやすくなります。


「互いに反するものの合一」であるとか「主観と客観の合一」などと難しく考えず、ただ人間を内面的なものと外面的なものに分けたものだとみなすのです。

これを三段論法に使ってみると、 

・大前提
  人間は存在する。
・小前提
  私は人間である。
•結論 
  ゆえに、私は存在する。

マリアのお告げ11番

2024-10-15 20:39:00 | キリスト教神秘主義
 11番 ひとつの目

 わたしが神を見ている目は、神がわたしを見ている、その同じ目です。

 わたしの目と神の目、それはひとつの目であり、ひとつのまなざしであり、ひとつの認識であり、そしてひとつの愛なのです。  
         教え 12番

 二つではなくただ一つだけなのです。わたしもあなたもいったん永遠なる光に包まれるとそれは一なるものとなります。この「二にして 一なるもの」は、万物を超え、しかしなお神の下に、永遠の周辺と境を接して立つ、ひとつの燃えさかる精神なのです。

 このものは、神を直接に見ることがないために、二なるものです。その精神の認識とその精神の有、いいかえれば、その精神の認識とその精神の像とはけっして一になることはありません。ただ、神が完全に像によることなく精神的に見られたときのみ、人は神を見るのであり、そのとき「一」はそのまま「二」であり、「二」はそのまま「一」なのです。光と精神、この「二」なるものは永遠なる光につつまれて、「一」なのです。

 このことは、言葉でとらえることのできる一切を超えています。 この奇跡をよく聞きなさい。何と驚くべきことでしょう。外に立つと同時に内に立ち、つかむと同時につかまれ、見ると同時に見られたもの自身であり、包むと同時に包まれるとは。

 こここそが究極の場であり、そこで精神はあこがれの永遠とひとつになり、安らぎにつつまれてとどまるのです。
        教え 86番

マリアのお告げ10番

2024-10-10 20:39:00 | キリスト教神秘主義
10番 神への捧げ物

 自分自身を完全に忘れた人、自分のものを、どのようなものにも、大きいものであれ、小さいものであれ、何であれ、まったく求めない人、自分の下、 自分の上、自分のかたわら、自分の内のいかなるものも見ない人•••

 財、名誉、安楽、快楽、益、内面的瞑想、聖性、 報い、天国などに執着しないで、これらのすべて脱却し、自分自身のすべてを脱却した人たちがいます。

 神はこのような人たちから栄光を受け、このような人たちが神に本当の意味で神に栄光を与え、神のものを神に捧げているのです。

         教え 6番

マリアのお告げ9番

2024-10-09 19:14:00 | キリスト教神秘主義
 9番 知恵

 イエスはご自身を魂のうちに、無限の知恵をもってあらわします。そして、知恵そのものであることばと、そこに含まれる一切のものを「一」として認識するのです。

 もしその知恵が魂と一致しているなら、魂の中からあらゆる疑い、迷い、闇は、全く取除かれ、そして魂は、純粋な、明るい、神ご自身であられる光の中に移されているのです。

 それは預言者が述べている通りです。すなわち、「主よ、あなたの光の内に光が知られる。」(詩篇35・10)と。

 その時、神が神を通して魂の中で知られます。そして魂は、その知恵を通して、自分自身も、すべてのものをも知ります。
 
 そして自分自身を知ることによって、知恵を知り、その知恵を通して、父の栄光と、その中にある豊かな産む力と、いかなる区別も持っておられない神の根源的な本性と、完全な単一性を知るようになるのです。

       教え 1番

マリアのお告げ8番

2024-10-09 19:02:00 | キリスト教神秘主義
8番 内なる自己

 わたしの身体は、わたしの魂がわたしの身体の内にあるより、わたしの魂の内にあるほうが多い。わたしの身体と魂は、それ自身の内にいるより、神の内にいるほうが多いのです。

 魂はその存在を神から直接に受け取ります。それゆえ、神は、魂が自分に対するよりも、魂により近く存在します。それゆえ、神は魂の根底において、その全神性を備えて存在するのです。

 魂はふたつの目をもっています。内なる目と外なる目です。魂の内なる目とは存在の内を見て、その存在を直接神から受け取る目です。

 魂の外なる目とはすべての被造物に向けられるもので、それらを映像としてとらえ、魂の力で知覚するような目です。

 神がわたしを見るとき、そのことによって、わたしに存在を与えられます。わたしが神を見るとき、そのことによってわたしは自分の存在を受け取るのです。魂には理性的な認識する存在があります。それゆえに、神がいるところそこに魂はあり、魂のあるところ、そこに神もいるのです。

 どうか、私たちが内なる自分を見つけることができますように…。

      教え 10番