二つに見えて、世界はひとつ

イメージ画像を織りまぜた哲学や宗教の要約をやっています。

マリアのお告げ6番

2024-10-07 19:57:00 | キリスト教神秘主義
6番 畑に隠された宝

 神の像、 神の子の姿は、魂の底に泉のようにあります。ところがもし誰かが土、すなわち世俗的な欲求を泉に投げ込むならば、その泉はそれによって妨げられ、塞がれてしまいます。

 その結果、泉を知ることも気づくことも出来なくなってしまいます。それにもかかわらず、この泉そのものは生き続けるのです。

 そしてこの泉は外から投げ込まれた土が取り除かれると、再び 姿を現わし、気づかれるでしょう。

 もう一つのたとえ話があります。太陽が絶えず照っていても、一片の雲や霧でも私達と太陽との間にあれば、その太陽の光線を見ることができません。また、もし目自体が病気にかかったり、 弱くなったり、霞がかかったりしたならば、光を感知できないのです。

 つぎもわかりやすい喩えでしょう。一人の名匠が木や石で像を造るときは、像を木の中に刻み入れるのではなく、むしろ像を覆い、隠している木屑を切り除くのです。木に何かを与えるのではなく、何かを取り除き、覆いをとり、錆を取り除くと、その下に隠されていたものが輝き出るのです。これが福音書にある「畑に隠された宝」なのです。

    論文「高貴な人」より




マリアのお告げ5番

2024-09-20 20:49:00 | キリスト教神秘主義

 5番 自我
 
 あなたの自我が、あなた意志やあなたの知識から真に離れる場合には、まさしく、神はすすんでご自身の知識をもってあなたの中に入り、その内で明るく、きらめき輝かれるのです。

 神がご自身のことを知っておられるところでは、あなたの知識は及ばないし、役にも立たないものです。あなたの知性が神のことを知ることができるまで成長できるという想像を抱いてはいけません。

 むしろ、神があなたの内に
神聖に輝いておられるためには、あなたの知性の光は、まったく役に立たず、純粋な無となって、自分から完全に遊離されなければなりません。

 あなたの知識、あなたの知性、あなたの意志、それらはみなあなたを騒がしくさせます。

 それゆえあなたは、それらのすべてを捨てなければなりません。すべてはただ内面のみから、つまり、ただ神のみから湧き出さなければなりません。

 それによって初めて、神は御自身の光とともにその魂の内に入られ、あなたが捨てたすべてのものを一緒に持ってこられ、さらにそれらは、千倍も増やされ、すべてを含んでいる新しい形で、一度だけ
持ってこられるのです。

         教え ⚪番
   
     
 

マリアのお告げ4番

2024-09-16 21:33:00 | キリスト教神秘主義
4番 素朴な人々

 素朴な人々は想像します。「神はあちらにいて、わたしたちはこちらにいる。」このように見ています。

 そうではないのです。
神とわたし、「わたしたち」は「一」なのです

 わたしは知ることによって神を受け入れ、愛によってわたしは神の内に入るのです。

 木が燃えるのをごらんなさい。火の中に入れば火の性質を帯びるのです。木が火を自分に変えるのでなく火が木を自分に変えるのです。

 これと同じようにわたしたちが神に変わるのでわたしたちは神をあるがままに知ることができるのです。

 神がわたしを知るように、同じようにわたしも神を知るようになるのです。   
         教え6番                                          


マリアのお告げ3番

2024-09-14 08:38:00 | キリスト教神秘主義
3番 内から

 外から何かがあなたに働きかけるなら、その行ないは死んでいます。たとえ神があなたに外から働きかけても、その行ないはすべて死んでいます。

 あなたの行ないが生きるためには、もし、それらを生かそうとするならば、神は内からあなたを、その魂の内奥においてうながさなければならないのです。

 なぜなら、そこにあなたの生命があり、そこにおいてのみ、あなたは生きるのです。存在の単純性と無垢性に生きるのです。

 それゆえ、すべてのものから身を転じなさい、そして、存在のうちで純粋に振舞いなさい。

 なぜなら、存在の外にあるものは、偶然性であり、すべての偶然性は「なぜ?」という言葉を起こさせるからです。
       教え 39番

マリアのお告げ2番

2024-09-12 19:27:00 | キリスト教神秘主義

2番 従順に生きなさい

 生きることはわたしたちに最も高貴な認識を与えてくれます。生きるということは喜びや光をよりよく認識するものです。

 生きるということは、この人生で受けることができるすべてのもの、そのすべてを真に与えてくれるのです。

 多くの場合永遠の光が与えてくれるよりいっそう明らかな認識を与えてくれます。

 永遠の光によってわたしたちは自分自身と神とを知ることができます。しかし神を離れた自己を知ることはできません。

 ところが、生きることにより、神を離れても自分自身を
知ることができます。

 わたしたちは主の言葉に聞きいりその口から流れ出る永遠の言葉より甘美な慰めと歓喜をくみとります。

 この幸福感の内に立ちどまったまま主の足もとにひざまづいているときは、マリアではありません。
 
 わたしたちがこの世に置かれているのは、この世の思慮深い行為によって神にますます近づき、神とますます等しくなるためなのです。

 ただ歓喜と甘美さに酔っているばかりでなく、自分のすべての行ないを永遠の光の像にならってきちんと行なうため、それを本質的に自らのものとするために立ち上がり、
生きることを学んでほしいのです。

 よく鍛えられた身体を持ち、賢明な教えに従順になってこそマリアと呼ばれます。

 洞察が命じることを自分の意志で実行すること、これが
「従順」なのです。

       教え 86番