バガヴァッド・ギーター
はインドの代表的な古典で紀元前1世紀ころの成立。叙事詩『マハーバーラタ』の一節に組み入れられ、全18章700詩からなる宗教•哲学詩。
物語りの舞台はパーンダヴァ軍とカウラヴァ軍が決戦に臨む前のところから始まります。両軍の布陣も終わり、まさに戦いを始めようとする場面なのに、パーンダヴァ軍のアルジュナは同族同士で争うことに疑惑を抱いて憂悶し、「私は戦いたくない」と御者であり師であるクリシュナに告げます。クリシュナは人間の姿をしていますが、実は神様(ヴィシュヌ神)の化身です。クリシュナは、彼の疑惑と憂悶とを晴らすため、世俗の死生観を離れ、武人の本分を全うすべきであることを、様々なヨーガの道を説きながら諭していきます。
聖なるバガヴァッドは言った。
アルジュナよ。憂えるべきでもないことについてあなたは憂いている。 しかし知者は、生きている者のためにも、 死んでしまった者のためにも憂えるようなことはない。
わたしはいかなる時も存在しなかったことはない。あなたも、そしてここにいる王侯たちも いまだかつて存在しなかったことはない。 そして、わたしたちすべての者は、 これから後にも存在しているのである。
あたかもこの肉体が、 子供から大人となり、やがて老人となってゆくように、 形有るものは他の形にと変化してゆくのである。 聡明な者はこのことに関して惑うことはない。
しかしながら、物質的な領域とふれあうことは、 寒さや熱さを感じさせ、苦痛と快感とを人に与える。しかしそれらは現れては消える一時的なものである。 あなたはそれらすべてに忍耐強くあるべきなのだ。
そのようなことに心を悩まされることのない人が、人々の中でもすぐれた人なのである。幸福にも不幸にも動じることのないような人、 そのような人こそが不死を得るにふさわしいのだ。
かりそめの存在であるものは決して永続することがなく、 真に存在しているものは決して消滅することがない。 このふたつの事がらの究極は、真理を見る人によってのみ見ぬかれるのである。
すべてのものを覆いつくしているこれは、不滅なものであると知るがよい。 これを破壊することのできるような人は誰もいない。
死滅するものはただ肉体だけである。肉体を身にまとっているものは永遠の存在であり、 それは変化することもなく、破壊されることもなく、 はかり知ることのできないものである。だから戦うのだ!アルジュナよ。
これを殺すと考えている者も、これを殺されると考えている者も、どちらも共に知らないのである。これは殺すこともできなければ、殺されることもない。
これは生まれたこともなければ、死んだこともない。 過去に生じたこともなく、未来に現れることもない。これは生まれることのないものであり、永遠であり太古より変化したこともない。たとえ肉体は殺されても、これは決して殺されはしない。
これを破壊することのできない永遠のものであると知り、生じたものでもなく、変化するものでもないと知る者が、いったい誰を殺すと言うのか、誰に殺されると言うのか。
人が古くなった衣服を捨て去って、新しい衣服を身に着けるように、この身体を身にまとう者は、古くなった肉体を捨て去り、別の新しい身体を受け取るのである。
それはいかなる剣でも切ることができず、 猛火でも焼きつくすことができず大水でも崩壊することができず、暴風でも吹き散らすことができない。
それは切ることができないものである。 焼くことも、濡らすことも、乾かすこともできない。 それは一切のものにゆきわたり、 変化することも動くこともない永遠のものである。
それは人の思いをはるかに超えたものである。 それは変化しないものである。 それをこのようなものであると知って、あなたは憂えてはならない。
もしそれを、「次々と生まれては次々と死ぬものである」と、 たとえあなたがそのように考えているとしても、 仮にそれがその通りであったとしても、あなたは憂える必要はなにもないのだ。
なぜなら生じたものは必ず消滅するように、 人にとっては誕生と死は必然のことなのである。 避けることのできないことについて、 あなたは憂えてはならないのだ。
生じてくるすべてのものは、 その始まる以前においては形なく、その中間においてのみ形をあらわし、その終わりもまた形がなくなるものである。 それゆえ、どうして憂えることがあろうか。
これを見る者はまれである。 これについて語る者もまれである。 ある人はそのことについて聞くが、 多くの人はたとえ聞いたとしても、全く理解できない。
すべての人の内に宿るこれは、 永遠に殺されることはないものである。 だからすべての生けるものについて、
あなたはもう憂えるのをやめるがよい。
ギーター 2章11-30
ヨーガを修めよ
人は自ら自己を高めるべきであり、決して堕落させてはならない。 人にとっては自己こそが真の友なのであり、 自己こそが敵なのである。
自己を克服した人にとっては、 自分自身が最良の友となり、自己を克服することのない人にとっては、 自分自身が最大の敵となる。
自己を克服し安らぎに満ちた最上の人は、 寒さにも暑さにも、順境にも逆境にも、 あるいは尊敬されようとも軽蔑されようとも、つねに平静さを失わない。
知性による認識に満足し、 くびきにつないだように正しく感官を支配する者は、「ヨーガを修める者」と呼ばれ、 土も黄金も平等に見るのである。
友人、親切な仲間たち、関わりの無い者、 どちらつかずの者、敵意をもつ者、親族たち、 そして善人に対しても悪人に対しても、平等に接する人は、まことにすぐれている。
ヨーガを修める者は、ひとり静かな場所で自分の心を引き締め、 なにものにも引かれず、なにものも受けつけず、 ただ自分自身にだけ注意を集中するのである。
清浄な場所において、 自分のために高すぎることもなく、低すぎることもないように、 布や皮や草を敷いてしっかりした座をつくり、 そこにしっかりと坐り、意識を一点に集中し心と感覚の活動を抑制し、自己を清めるためにヨーガを修めるのである。
体と首と頭が一直線になるようにし、動くこともなく、周囲を見ることもせず、ただ自分の鼻の先端をじっと見つめよ。心を静め、恐れをなくし、 心を統一して坐るのである。禁欲の生活を守り、"わたし"に心を集中させ、 "わたし"を目標にするのである。
このようにつねに自己を修練し 静かに心身の活動を制する者は、"わたし"の住まいである最高の平安に到達する。
ヨーガを修める者は、あまり多く食べ過ぎてはならず、あまりに節食してもならない。眠りにふけるのもいけないし眠らないのもいけない。
ヨーガの修行においては、
適度な食事を取り、規則正しく仕事をし、 節度ある休養や睡眠を身につけることが、
苦しみを滅することになるのである。
心の動きを抑制し、 自己自身に満ち足りるとき、人は一切の欲望から離れ、ヨーガを達成したといえるのである。
「風のない所にある灯火は決して揺らめくことがない」、
これは、心を支配したヨーガを修める者の比喩として伝えられている。
ヨーガの修練によって、 心の活動は一切のものから遠ざかる。その状態において確かに人は、 内なる自己を見つつ、それに満足する。
知性によってのみ理解し、捉えることのできる、この無上の幸福を知り、そこに止まり、もはや真理から離れることはない。
人はそれを得れば、これ以上にまさるのは他に何もない」と確信し、 不幸にであっても、どんな困難にであっても、もはや動じることはない。
苦しみから離脱することが、 ヨーガであると知るべきである。 このヨーガは堅い決意と不屈の心をもって 修められなければならない。
心から生じてくる一切の欲望を捨て去り、 あらゆる方面よりすべての感覚器官を統御し、 確信によって守られた知性によって、一歩また一歩と、心を自己に固定させ、 他のなにものをも思わず考えるな。
心というものは不安定であり、信頼し難きものである。
心はゆらゆらとあちらこちらへ揺れ動く。しかし、あなたはそれを引き戻し、断固として自己の支配下に置かなくてはならない。
激情が鎮静され心が静寂になった人は、 汚れなき者となり、ブラフマンに没入して無上の幸福に到達する。
このようにヨーガにより、つねに自己を修め、罪過から遠ざかり離れた人は、ブラフマンと絶えず接して、 無上の幸福に到達するのである。
ヨーガにより自己を修めた 人は、あらゆるものを同一に見る。自己を全世界の中に見、 全世界を自己の中に見るのである。
わたしを一切の中に見、 一切のものをわたしの中に見る人、 その人にとってわたしは失われることなく、 わたしにとってもその人は失われることはない。
わたしを一切の生存するものの中にあるとして、熱心に愛し崇め、すべてのものを平等に見る人、 そのような人はどのように生きようとも、 わたしの中で生きているのだ。
自分自身と引き比べて見て
すべてのものの苦楽をまるで自分のことのように見る者は、 完全にヨーガを修めた者と言えるのだ。
アルジュナは言った。
おお、クリシュナよ、心は実にゆれ動き、落ち着かず、
とても頑迷であり、 まるで風をとらえるようなものである。
聖なるバァガヴァッドは言われた。
偉大な勇者よ、確かに心というものは、ゆらゆらとして守り難いものである。 しかし、たゆまぬ努力と、そして離欲によって可能なのである。
(46) ヨーガを修める者は、苦行者よりも偉大である。 賢者たちよりも、有能な働き手よりも偉大である。それゆえアルジュナよ、あなたはヨーガを修める者となれ。
6章5-32