九月一日、朝の説法
日月のたとえ
どなたも私の説法を聴聞しようと、夜明け前からこのように大勢せり合い、窮屈な目を顧みずにこの会合に参られるのは、もちろんのこと有難いことと存じます。というのも皆さん夜明け前から早起きをなさってここへお出でになるのは、どなたも仏に成りたいとお思いになってのこと、そのように思うその心が、そもそも賢く生まれついているからなのでございます。これはそのまま仏心が各々に備わっている徳と申すべきものでございます。そうではありますが、今どきは、世渡りをするのに、悪い習慣が身について育ち、霊明な仏心を暗まして迷っているのでございます。
仏心は育ちの悪い念に引かれ、迷ったのでこそあれ、失って、無いと申すのではございません。我欲が強く身のひいきに引かれ、迷い暗ましたと申すもので、失ったというのではございません。
その証拠に、たとえを以ていいましょう。日月は、日々かわらずに照らしますも、雨の夜、また、曇の時は、昼であっても日は見えません。
しかし、毎日毎夜、少しも違うことない時刻に、朝方には東よりお出になされて、夕方には西の山へお入りなさるではございませんか。ただ雲に隠れて、あらわれないというだけのことです。
日月は仏心に、雲は迷いのようなものでございます。仏心もそれと同じように、迷いが隔てをなしてあらわれないために、皆さま方が知らぬというだけのことで、たとえ寝入った間も失ってはおりません。
親の産み付けた仏心は、霊明なものでして、失いようがございません。生まれ出るや否や、水をかければ冷たく、火を近づければ熱く、その仏心一つの働きで、一切のことが調いまする。
我慢
このたび、仏になりませんといつになっても仏果をえられません。もし畜生になりましたら、どれほどありがたい事を説き聞かせても話しが通じず、縁が切れてしまいまして、また、仏に成りたいという思いもありはしません。このようなことを皆さんお聞きになり、今日から不生の仏心にもとづこうとお思いになるなら、第一に、この身にひいきがないようになされませ。そうすればおのずから仏心で居るようになるものでございます。
人には我慢なるものが有るものでございます。何事も人に劣るまいと思うのが、悪い事でございます。この劣るまいという思いが、すなわち我慢と申すものでございます。 何事も人に勝とうと思はねば、劣る事もございません。
また、人がまた自分に悪くあたるのは、きっと我慢があるからでございます。人が自分に悪くあたるのは、自分に悪いところがあるからではないかと、自分に目を向けてみるときは、世間に悪い者は一人もいなくなるものでございます。
怒りの念が起こりますと、仏心を修羅道にし替えてしまいます。ただ怒りも喜びも、みなこれ身びいきがあるからですので、霊明の仏心を暗まして迷って流転するのでございます。身びいきがなければ、また仏心の不生で居ますので、流転することもございません。
ですから、どなたもよくご理解なされるがよろしい。このことわりをとくと納得なされば、修行をしなくとも、戒律を保たなくとも、今日から仏心でございます。
同二日、朝の説法
不生不滅の仏心
これまで皆さんお聞きの通り、めいめいが生まれつきの仏心でございますので、不生のままで居ますればよいのですが、世間のならわしで、悪い世渡りを習いましたので、惜しい可愛いの餓鬼道に仏心を替えているのでございます。ここをよくよくご決定なされば、不生の仏心で常に居るというものでございます。
しかしながら、不生になりたいと思われて、怒りや腹立ちや、惜しい欲しいという念が起こるの止めようとされますと、二つの念が起こりまして、ちょうど走る者を追うようなもので、 起る念とを止めようとする念が戦いまして永久に止まらぬものでございます。
たとえを使って言うのであれば、血でもって血を洗うようなものでございます。もっとも、先の血は落ちるでしょうが、また後の血が付きまして、いつまでも赤色はとれません。そのようなものでございまして、前の止められる怒りの念は止むでしょうが、止めようとした後の念がいつまでも止まらないのでございます。
だとすればどのようにして止めるのかとお思いでしょうが、たとえ、はからずも思わず知らず立腹する事がありましょうとも、あるいはまた惜しいとか欲しいとかの念が出ましょうとも、それは出るままにして、その念を重ねて育てず、執着をせずに、起こる念を止めようとも、止めまいとも取り合わなければ、止むよりほかはないのでございます。垣と論争するのは、一人では成り立ちません。その相手がいないのであれば、自然と止まないではいられないのです。たとえまた色々の念が起こりましょうとも、その起こってきました念は、ちょうど三つか四つの幼い子供の遊びのように、嬉しいも悲しいも続けてその念にかかわらず、止めようとも止めまいとも、思わず知らずにおられることが、とりもなおさず不生の仏心で居るというものでございます。こうした心持ちで常におられるのがよいのでございます。
また、悪いことも善いことも思うまいとか止めようとかなさらなくとも、おのずから止まないことはないのでございます。怒り、嬉しいというのも、これはすべて我が欲に付いて、身のひいきの強さより生じたものですから、一切貧着の念を離れましたならば、その念が滅せないではいません。その滅したところが、すなわち不滅でございます。不滅なものは不生の仏心でございます。
とにかく常に不生の仏心を心がけなさい。不生の上にあれやこれやの念を出かしこしらえ、向こうのものに貧着し、仏心を念に取り替えなさらぬ事、これが一番です。これに油断をしなければ、善悪の念も起らず、 またやめようとも思わなくなります。そのときは生ぜず滅せずではないですか。そこが不生不滅の仏心というものでございます。このことを、よくよく納得なされるがよろしい。
漢語より日本語
私も若い頃には、何としてでも、仏心を見開こうと、あちらへこちらへと善知識をたずねて熱心に参禅問答をしたものですが、すべて普段の話し言葉で問いましたが心安くく聞き受けられました。その後はよく納得がいって、しませんでしたわい。日本人は日本人に似合ったように、普段の話し言葉で道を問うほうがよろしい。日本人は漢語が不得手ですから、漢語の問答では、思うように道が問いつくされないものです。 しかし、普段の言葉で問えば、どのようにも問われぬということはございません。ですから、使いにくい漢語で気張って問答するよりも、使いなれた言葉で気張らずに問答したほうがよろしいのです。
それもまた漢語でなければ真実が体得できないというのならば漢語で問答するほうがよろしいが、平生の日本語で自由に問答して、結局それでよいわけですから、ことさら使いにくい言葉で問答するのは、どうかと思います。ですから、皆さんそう思って、どのようなことであろうと結構でございます。遠慮せずに、自由に普段の言葉で問答して、らちをあけなさい。らちさえあけば、使いやすい普段の言葉ほど便利なものはないですか。
日本の僧侶が漢語にうとい俗人に、ことさら通じにくい外国の言葉で示すのは、自分の上に、仏心のらちが明かぬゆえに、それを俗に通じにくい漢語を使ってごまかしているというものでございます。
不生で歩く
仏心は不生にして霊明なものだと、皆さん思いなさい。 一度行った所は、何年たっても、覚えていようと常に思ってはいませんが、よく覚えていまして、忘れはしません。自分の行った所へ、 またほかの人が行きましたら、そこから百里も離れた土地で話しましても、行った者同士はどこで話しても、話が合うものです。また道を行きますとき、向うから大勢の人が来れば、よけようと思う念を人々は生じませんが、向うから来る人に自然と突き当たりもせず、また人に突き倒されもせず、踏まれもせず、大勢の人の中を通っても、あちらにくぐり、こちらにかたより、抜けつ、くぐりつ、しようという思う分別の念を生じなくとも、自由に道を歩きますわい
仏心はこのように不生にして、霊明でございまして、それで一切のことがうまく運びます。もし万一、自然にかたよろうと思う念を生じてかたより通りますは、霊明なはたらきでございます。しかし、片寄る方へは念を生じて片寄りますが、足もとには、一足一足に分別の念を生じて歩きはしません。 それでも自然に歩くは、不生で歩いているからでございます。
自力でもなく他力でもない
私どもの宗旨は、自力にかかわらず、他力にもかかわりませぬ。自力他力を超えているのが私どもの宗旨です。
その証拠には、私がこう言っているのを、皆さんこちらを向いて聞いておいでになる間にも、うしろの方で、雀の声、鴉の声、男の声、女の声、風の吹く音がすれば、それぞれの声が、聞こうと思う念を生ぜずにいても、こちらへはそれぞれの声が、ちゃんと分かれ通じて聞こえるのは、自分が聞くのではないのですから、自力ではありません。
またこれを人に聞いてもらって、聞きわけているわけではないので、他力でもありません。そうすると、自力にも関係せず、他力にも関係せず、自力他力を超えているのが、私どもの宗旨でございます。 そうじゃございませんか。
このように、その不生で聞けば、一切のことが聞えております。そのほかの一切のことも、みなまずそのように、不生でうまく運びます。不生で働く人はどなたであれ、皆一切のことが不生でうまく運びますから、不生な人はどなたでも、自力他力にかかわりなく、自力他力を超えておりますわい。
香川県丸亀の宝津寺
*禅の六祖慧能の「六祖壇経」に盤珪禅師の日月のたとえと同じものがあります。
日月のたとえ
日月はいつも天上に輝いている。しかし厚い雲に包まれると天上は明るくとも地上は暗やみとなる。人々の般若の知恵もこれと同じようである。
人々の本性の清らかなことはまるで青空のようである。その知は月のようであり、その恵は太陽のようである。知恵はいつも輝いているのだが、外に向いてそこにとらわれると、妄念の浮き雲が現れて本性の輝きが覆われてしまう。やがて妄念が幾重にも厚く重なり、煩悩の根が深くくい込む。それは厚い暗雲が太陽を覆い隠すようなものである。
風が吹き払ってくれないと太陽は姿をあらわすことができない。そのときは友人をたずね妄念を払ってもらわねばならない。
間違った考えは正しい考えで払い、無自覚は自覚で、愚かさは知恵で、悪は善で、迷いは悟りで、払いのけるのである。
このようにして知恵の風が吹きつけ妄念の雲や霧を追い払ってしまうと、ふたたび世界は新しくその姿を現す。
「六祖壇経」般若第二