二つに見えて、世界はひとつ

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祖師西来意/円悟

2023-04-07 10:53:00 | 仏教の大意

密雲円悟(みつうん えんご、(1566ー1642年)は中国の明末の臨済宗天童派の禅僧。以下は円悟の書簡からの引用です。
   

「それは諸君の面前に示されており、この今の瞬間、 全体は諸君に手渡されているのだ。利根の者にとっては、その真理を納得させるに、一語でもって十分であるのだが、しかしそこにすでに誤りがはいっている。 ましてや、それが紙墨に書きつけられ、あるいは言語による表示とか論理的な表現にうつされたときには、 その誤りはますます大きくなり、その時それは諸君のもとから、はるか遠くに逃げ去ってしまうのだ。

 禅の偉大な真理は、各人各人にそなわったものである。それを自己の存在のなかに求めていくべきであり、他のものに求めてはならない。 諸君のそれぞれの心は、あらゆる形体を超えたものであり、自由にして閑静、充足したものであり、それはどこまでも、六根四大にみずからを刻印していくものである。その光なかにあっては、あらゆるものが呑み込まれてしまうのだ。

 主観•客観といった二元論を沈黙させ、二つながらを、忘れ去り 、知性を超え、みずからの悟性を離れて、直下 に仏心の一に透徹すべきである。これ以外に、いかなる実在とてもないのだ。この故に、菩提達磨が西方より渡来してきた(祖師西来)とき、彼はただ「まっすぐに自己自身の心を指し示せ( 直指人心)。 わが教説は無比なものであって、経典の教えに束縛されることなく真の心印を単伝するものである(教外別伝• 単伝正印」と宣言したのであった。

 禅は文字•言葉•経典となんのかかわりももたない(不立文字)。それは直下に真実を捉え、そしてそこに安心の地を見出すよう、諸君に要求するのみである。

 心の平静が乱されたとき、 悟性が動き、対象が認識され、いろいろと観念が心に浮かんできて、妄想があらわれ、偏見がはびこってくる。そうなったとき、禅はもはや迷路のうちに見失われているのである。

鈴木大拙禅選集
「禅仏教入門」禅とは何か?より

見出し画 達磨図 伊藤若冲筆 
   いおうじゃくちゅう
江戸時代  十八世紀