『カタ・ウパニシャッド』は聖仙ウッダーラカ・アールニの息子と、死神ヤマとの死に関する問答。ヤマ( Yama)は、インド神話における人類の始祖であり、また死者の主。仏教の閻魔はヤマに由来する
言葉も思考も及ばぬもの
一方には精神的な幸福があり、他方には肉体的快楽がある。 この二つのものはそれぞれ異なった目的をもってはいるが、 どちらも人を引き寄せ束縛する。この二つのものの中で、幸福を選ぶ人には善いことがあり、 快楽を選ぶ人は人生の目的からはずれる。
幸福も快楽も人に近づいてくる。 賢明な者はこの両者の相異を熟慮したうえで、精神的な幸福を選ぶ。しかし愚かな人は、快楽を選ぶ。
無知として知られるもの、知恵として知られるもの、 この二つのものは全く異なっていて互いに遠く離れている。 無知の中で暮らしていながら、自分は賢者であり学識あると思い込んでいる愚かな者は、盲人に案内されている盲人のように、あちらこちらとさ迷い歩く。
富に対する妄想に目をくらまされ、 軽薄に生きている愚かな人には、かの世界のことは意識にのぼってこない。 この世があるだけで、他に別の世界があると考えない人、
そのような人は死神にとらえられる。
多くの人々にとっては聞くことさえできないもの、たとえ聞いても知りえないもの、 それを語る人はまれであり、それを得る人はまことの賢者である。賢者に教えられて知る人もまれである。
これは普通の人に説き示されたとき、 熟慮に熟慮をかさねたとしても、 容易に理解できるものではない。 しかし、説き示してもらえなければ、 そこに到達する道はない。それはいかなる小さなものよりなお微細なものであり、 言葉も思考も及ばないものであるからである。
秘奥にかくれ、胸の奥の深淵にひそみ、姿を見せないこの太古以来の者••• この者を、自己に関する瞑想の達成により、 神であると知り、人は喜びも悲しみもともに離れる。
カタ・ウパニシャッド 2章
アートマン
アートマンは生まれもせず、死ぬこともない。 これはいずれより来たのでもなく、いかなるものにも成ることはない。 この太古以来のものは生じることなく、 減することなく、永遠なものである。
殺害者が殺そうと思い、
殺された者が自らを死んだと思っても、 両者はともに知らないのである。 これは殺しもせず殺されもしない。
極微なものよりなお微細であり、 極大なるものよりもなお大きなもの。 それはすべての生命あるものの 胸の奥深くにかくれ潜んでいる。
真実の自己に目覚めた者、
憂いを離れ、苦しみを離れ、欲望を超越した者は、 創造神の恩恵により、偉大なアートマンを見る。
坐っていながら遠くにおもむき、 臥していながらあらゆる所を行きめぐる。 歓喜でもあり歓喜でもないその神を、 わたし以外の誰が知るであろうか。
アートマンは身体の中にあって身体なく、 ゆれ動くものの中にあって不動である。 すべてのものにあまねくゆきわたるものである。 賢者はこのように洞察し、すべての憂いを捨てさる。
このアートマンは教えによっては得られない。 知性によっても、博識によっても、 聖典を広く学ぶことによっても得られない。 それはただ、アートマンが選ぶ人にのみ得られる。 そして、その人にだけアートマンは自らの姿を現す。
悪い行為をやめない者、心が安らいでいない者、 心が統一できていない者、思慮の定まっていない者、 そのような者は、単に理知だけによっては、 アートマンに達することはできない。 彼のいる場所を誰が真実に知っているだろうか。
同 2章
バガヴァッド・ギーターにも引用されている馬車のたとえ。
馬車のたとえ
アートマンは馬車に乗る者であり、身体は馬車であると知れ。 そして理性が御者であり、心が手綱であると知れ。 もろもろの感覚器官は馬であり、 精神 その対象の中を馬は駆けめぐるのである。
アートマンと感覚器官と心とが一体になったもの、 それが「人」であると賢者は呼ぶ。 分別もなく、つねに心の手綱を引き締めない者は、 あたかもあばれ馬を制することができないように、 自らの感覚器官によって振りまわされる。 しかし、分別ありつねに心の手綱を引き締めている者は、 あたかも御者が良馬を制するように、自らの感覚器官を制するのである。
分別も思慮もなく、つねに汚れている者は、かの場所に至ることなく、くり返し迷いの世界へとおもむく。 しかし分別あり思慮をそなえ、つねに清らかな者は、 かの場所に到達し、そこからさらに生まれることはない。 理性を御者とし心を手綱とする者は、目的地に到達する。 そこはヴィシュヌ神の住まう場所なのである。
実に、感覚器官よりもその対象がすぐれ、 その対象よりも心が上位にある。 しかし心よりも理性がすぐれ、 理性の上に大いなるアートマンがある。 大いなるアートマンよりも、 「現れざるもの」が上位にあり、「現れざるもの」より「プルシャ」はさらにすぐれている。そして「プルシャ」にまさるものは何もない。それは究極の頂点であり、 それこそは最高の拠りどころである。
このアートマンは、この世に存在するすべてのものの中にひそんでおり、 決してその姿を現すことはない。 しかし明晰な観察力をもつ者たちによって、その鋭く聡明な理性によってそれは見いだされる。
英知ある者は、言葉と思考とを抑制せよ。 それを知恵としてアートマンの中に抑制せよ。 大いなるアートマンの中に。平安なるアートマンの中に。
立ち上がれ、目覚めよ! 恩恵を得て悟れ。 この鋭いかみそりの刃のような細い道は、 とても渡るのが困難である。 すぐれた人々はそれを行路の難所と言う。
音もなく、感触もなく、味もなく、香りもなく、 姿も形もなく、変化することもなく、 始めもなく終わりもないもの、 大いなるものよりさらに上にあり、動くことのないもの。 人はそれを見ることによって、死より解放されるのである。
同 3章
死霊の縄
神は外の世界に向けて孔をあけた。 それゆえに人は外を見るのであるが、 内なるアートマンには眼を向けることがない。 ある賢者は、不死を求めて、 眼をひるがえし、内にアートマンを観察した。
愚かな者は外に向かってさまざまな欲望のあとを追う。 そして彼らは、あらゆる所に張りめぐらされている 死霊の縄にとらえられる。 しかし、賢者たちは不死を知り、 この世において移ろいゆくものの中に 永遠なるものを求めることはない。
同 4章
吸いこむ息によっても、吐き出す息によっても、 人は生きているのではない。人はこの二者のより所である別のものによって生きているのではある。
たとえ人が眠っている間も目覚めており、 欲するままにその姿を現すプルシャ それこそが光であり、ブラフマンであり、不死である。 全世界はそれをより所としているのである。 それを越えることのできるものは何もない。
一つの火が生物の中に入り、それぞれの形に応じたものとなるように、一つの風が生物の中に入り、息となり、
それぞれの形に応じたものとなるように、万物の内にあるアートマンは一つのものでありながら、それらの中に入り、それぞれに応じたものとなる。しかもそれらの外にあるのである。この世の眼である太陽が、人の眼の欠陥によって汚されることがないように、万物の内にあるアートマンも、この世の不幸にも汚されず、その外にあるのである。
この世のあらゆるものの内にあるアートマンは、唯一の支配者であり、その一つの姿を多様に現す。 それが自分の内に存在するのを洞察する賢者たち、 永遠の幸福は彼らとともにあり、他の者にはない。 言葉では言い表わせないような無上の歓喜を「これがそれだ!」と彼らは思う。
そこではもう太陽も輝かない、月も星も輝かない。 かの光り輝くものの輝きを反映させながら、 一切のものは輝き、全世界はきらめくのである。
同 5章
われ『あり』
この世において、肉体からの解放に先立って知ることができたなら、その後に天上の世界で身体を得るにふさわしい。
これは鏡に映る自分の姿のようであり、祖霊の世界では夢のように見られ、ガンダルヴァの世界ではあたかも水面に映るかのように見られ、ブラフマンの世界では白日のもとで見られる。
実に、感覚器官よりも心がすぐれている。しかし心よりも理性がすぐれ、理性の上に大いなるアートマンがある。 大いなるアートマンよりも、 「現れざるもの」がさらに上位にあり、「現れざるものよりも、 全く特徴をもたない「プルシャ」はさらにすぐれている。 このことを知って人は不死となる。
彼の姿は秘められたものであり、 だれも見ることはできない。 それは心によって、思考によって、理性によってのみ捉えることができる。そしてそれを知る者となる。
五感の働きが心とともに静まり、理性すら動かぬようになったとき、それを最高のものへの没入と人は言う。
感覚を働かせず、すべてを静止させることがヨーガであると人は理解する。そのとき、人は心を散らさなくなる。 ヨーガとは実に内なる力の発現であり、 また、内なる力への没入である。
言葉によっても思考によっても視覚によっても、 アートマンは得られない。それは、「ある」という以外には、 どのようにして理解されよう。「ある」ということのみによって、 それは理解されるべきである。
理解するものと理解されるものの同一である状態として ただ「ある」というように理解されたとき、ブラフマンとアートマンの本質が知られる。
心によって生じるあらゆる欲望が制せられるとき、死すべき者は不死となり、この世においてブラフマンを得る。この世において心の結び目がすっかり解きほどかれるとき、死すべき者は不死となるのだ。
同 6章
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