プラトンの対話篇「パルメニデス」において、主人公のパルメニデスと若きアリストテレスの「一なるもの」に関する対話のさいに出てくる話ですが、動いているものが静止に、あるいは静止しているものが動きに転化するさい、そこには何か非常に奇妙なものが現れると言います。
忽然(こつぜん)
•••それは〈たちまち〉(忽然)というものだ。というのはそれから両者いずれへでも変化できるような、何かそういうものを指し示しているように思われるからだ。というのは、止まっていることからの変化は、ものがまだ止まったままでいるうちは起こらないし、動きからの変化も、それがまだ動いているままでは起こらないからだ。
ところがこの〈たちまち〉というのは、本来的に何か奇妙なあり方をするものであって、動と静の中間に座を占めて、しかもいかなる時間のうちにもないものなのである。
そして動いているものが静止に変化し、静止しているものが動きに変化するのには、まずこの〈たちまち〉に入り、またこの〈たちまち〉から出なければならないのだ。
「一」もまた、それが静止したり動いたりするなら、その両者どちらへも変化できるものであろう。なぜなら、そういう変化によってのほか両者いずれをもなすということはできないからだ。しかしそれの変化は、忽然として変化するという仕方でなのだ。
そしてそれが変化するとき、それはいかなる時間のうちにもないだろう。また、その場合、動いてもいなければ、静止してもいないだろう。パルメニデス(21−156D)
無限進行
同じくパルメニデス(26)では無限進行について語られています。
もし「一」がなく「多」だけがあれば、始めのさらに始め、終わりのさらに終わり、中間のさらに中間が現れると言います。
思考の上だけの存在
いつでもそれらの何かを、あたかも実在するかのように、人が思考の上だけでとらえるとしたら、その始めに対しては、いつもそれより先にもっと別の始めが現れるし、またその終わりにたいしては、その後にまた別の終わりが残されているのが見られ、その中間のところには、それよりももっと中になるーもっと小さなーものがいくらも現れるだろう。それは「一」は実際には存在しないのだから、それらのそれぞれを「一」としてとらえることはできないという理由によるのである。
つまり人が思考の上だけでとらえる存在なるものはすべて、くだけて細分されなければならないものなのだとわたしは思う。なぜなら、そこでとらえられるのはいつも統一性を欠いたかたまり(集塊)なのだろうからね。
もし一がなくて多があるとすればという前提を置くことによってだがね。パルメニデス(26―165B)
夢の中の幻まぼろし
このように、「一」なしに「多」を考える場合、始まりにはさらにその前の始まりがあり、終わりにはさらにその後の終わりがあり、中間にはさらにその中間が現れる。それはもろくてくずれやすいかたまり(集積、集塊)となって現れる。そしてそれは夢の中の幻のように、ただそう見えているだけで、実際はそうでないことが、語られます。
有ると無いは同じ
物語の最初のほうに、
万有が「一である」ことを主張する師のパルメニデスにと、それが「多ではない」ことを主張する弟子のゼノンに向って、二人のそれぞれが、同じことを言っていながら、同じでないような言い方をするのは、世人には分からないように密かに師の説の証拠づけを行っているのだとソクラテスが指摘する場面があります。2―12B
背理法(はいりほう)
画 ルネ•マグリット
人を正面から見るのと背後から見るのとでは違うように、正面からの命題を反対側から見た命題です。大まかな流れは、以下のようになります。
「○○である」という命題Aを証明したい
↓
命題Aを否定する、つまり「○○ではない」という仮定を立てる
↓
「○○ではない」という仮定を立てたことで起こる矛盾を探す
↓
命題Aの否定(=「○○ではない」)はおかしい、と言える
↓
命題Aは正しい!(=「○○である」)と言える
「一である」と「多ではない」。意味はほとんど同じですが、紛らわしいものです。
*背理法には「矛盾が生じたならそれは正しくない」という前提がありますが、現在はこの前提そのものに疑問があり、矛盾が生じるからといってそれが間違っているとは断定できないものだとされています。
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