ヤージュニャヴァルキヤが『ブラフマン』をジャナカ王に説く場面
アートマン
まるで蜘蛛が糸をたどって昇ってゆくように、細かい火花が火から飛び散るように、
このアートマンから一切の機能、 すべての世界、すべての神々、すべての存在が生じてくる。
それは「真実の中の真実」と呼ばれる。 すべての機能は真実ではあるが、 アートマンはそれらの機能の真実なのだからである。
ブリハッド•アーラニヤカ •ウパニシャッド2章1節−20
主体者
視覚の主体である視る者を、 あなたは見ることができない。 聴覚の主体である聴く者を、 あなたは聞くことができない。 思考の主体である思考する者を、 あなたは考えることはできない。 識別の主体である識別する者を、 あなたは識別することはできない。
あなたのアートマン、それが万物の内にあるアートマンなのである。 それ以外のものは苦悩にゆだねられているのである。
同 3章4節
真のバラモン
われらの眼の前に現れ、
姿を隠すことのないブラフマン、万物に内在するアートマン、それはあなたのアートマンである。それは飢渇、憂い、無知、 そして老いと死とを超越するものである。
バラモンたちは、聖典を学ぶことにより、祭祀により、 布施により、苦行により、断食により、 それを知ろうと望んでいるのである。それを知ったとき、人は聖者となるのである。 遍歴者たちはこれのみを目的として、この世を遍歴するのである。
古人はこのことを知っていたが故に、 子を望まなかったのである。 彼らは、息子を得たいという望み、あるいは財産を得たいという望み、
世間的なあらゆる望みを顧みることなく、食を乞いながら歩き回るのである。
なぜなら、息子を得たいということは、 財産を得たいという欲望にほかならず、財産を得たいということは、死後の良き世界を得たいという
欲望にほかならないからである。それらはじつに同じものなのである。
だからこそバラモン僧は学識を捨て、 愚かさに満足すべきである。さらに学識とか愚かさとかを捨て、彼は聖者となるのである。
そして聖者とか聖者でないとかの立場も捨てたとき、 彼は真のバラモンとなるのである。
同 3章5節
内なる統率者
地の中にありながら地とは別のものであり、 地がそれを知ることもなく、 地がそれの身体であり、内から地を統率するもの、 それがあなたの内なる統率者であり、 不死なるアートマンである。
水の中にありながら水とは別のものであり、 水がそれを知ることもなく、 水がそれの身体であり、内から地を統率するもの、 それがあなたの内なる統率者であり、 不死なるアートマンである。
火の中にありながら火とは別のものであり、 火がそれを知ることもなく、 火がそれの身体であり、内から火を統率するもの、それがあなたの内なる統率者であり、不死なるアートマンである。
太陽の中、月の中、星の中にありながら、 太陽や月や星とは別のものであり、 太陽や月や星がそれを知ることもなく、 太陽や月や星がそれの身体であり、 それらを内から統率するもの、 それがあなたの内なる統率者であり、 不死なるアートマンである。
すべての世界の中にありながら、 すべての世界とは別のものであり、 すべての世界がそれを知ることもなく、 すべての世界がそれの身体であり、 内からすべての世界を統率するもの、 それがあなたの内なる統率者であり、 不死なるアートマンである。
気息の中、言葉の中、眼や耳や皮膚の中、 心の中、認識の中にありながら、 それらとは別のものであり、 それらがそれを知ることもなく、 それらすべてがそれの身体であり、内からそれらすべてを統率するもの、 それがあなたの内なる統率者であり、 不死なるアートマンである。
それは他から見られることなく自ら見るものであり、 聞かれることなく自ら聞くものであり、 他から思考されることなく自ら思考するものであり、他から認識されることなく自ら認識するものである。
それ以外に見る者も聞く者はなく、それ以外に思考する者も認識する者はない。それがあなたのアートマンであり、不死の、内なる統率者である。そして、これ以外のものは苦悩にさいなまれるのである。
同 3章7節
不滅なるもの
天より上にあり、地よりも下にあり、この天地がその中にあり、過去・現在・未来とよばれるものは、 空間の中において、縦と横に織りこまれている。そしてその空間は、 バラモンたちが「不滅なるもの」と呼ぶものによって、 縦と横に織りこまれているのである。
その「不滅なるもの」とは、大きくもなく小さくもなく、長くもなく短くもない。 香りも味もなく、眼も耳もなく、影も闇もなく、風も空間もなく、 執着することがなく、接触がなく、香りも味もなく、眼も耳もなく、言葉もなく、心もなく、顔も名前もなく、 活動することがなく、生まれることも老いることもなく、 死ぬこともなく、恐れがなく、塵がなく、音声がなく、 覆いを取られることもなく、覆い隠されることもなく、以前もなく以後もなく、内もなく外もないもの...
この「不滅なるもの」の指示にもとづいて、 天と地とは分かれて存在しているのである。 この「不滅なるもの」の指示にもとづいて、太陽と月とは分かれて配置されているのである。 この「不滅なるもの」の指示にもとづいて、 昼と夜、もろもろの月日、もろもろの季節もろもろの年が、それぞれに分かれて配置され存在しているのである。 この「不滅なるもの」の指示にもとづいて、 川は山から東へと、山から西へとそれぞれの方向へと この「不滅なるもの」の指示にもとづいて、布施する者のところへは人が、祭祀を行なう者のところには神々が、 供養をする者のところには祖先の霊が、 それぞれ集まって来てほめたたえるのである。
この「不滅なるもの」を知らずに、 たとえ千年もの間、この世で供犧を捧げ、祭祀を行ない、苦行したとしても、その果報はやがて失われてしまうものである。この「不滅なるもの」を知らずに、この世から去る者は、みじめな者である。 この「不滅なるもの」を知って、この世から去る者こそ、まことのバラモンである。
この「不滅なるもの」は、
見られることのない見る者、
聞かれることのない聞く者、 思考されることのない思考者、認識されることのない認識者である。これ以外の見る者はなく、これ以外の聞く者はなく、 これ以外の思考者はなく、これ以外の認識者はない。
虚空がそのものにおいて、 縦と横とに織りこまれているもの、それは、この「不滅なるもの」なのである。
同 3章8節
ブラフマンの世界
太陽が沈み、月も沈み、あらゆる火も消えうせ、言葉も絶えてしまったとき、 人は何を光明とするのであろうか?
それはアートマンである。
人はアートマンだけを光明として坐し、動き回り、仕事をし、そして帰って来るのである。
アートマンとは、認識から成り、心臓の中において内なる光を発し、つねに同一の状態にありながら、 しかも、この世とかの世とを往復するのである。 彼は沈黙して瞑想にふけるかのようであり、
ゆらゆらと動くかのようである。夢見るようにこの世界を超越するのである。
この人は生まれると同時に肉身を受け、 もろもろの悪と結合される。そして彼が肉身から離脱して死ぬとき、このもろもろの悪を捨てさるのである。 この人はじつに二つの状態をもつものである。
すなわちこの世とかの世の状態である。睡眠の状態は第三のものであり、両者の中間の状態である。このとき彼は 夢見るときはみずからの光に包まれて眠るのである。 このときこの人はみずからを光とするのである。
そこには車もなく車につなぐ馬もなくそして道もない。
彼はそれらを自分で造りだすのである。 そこには喜もなく喜びも享楽もない。 彼はそれらを自分で造りだすのである。 そこには泉もなく蓮の池も川もなく、 彼はそれらを自分で造りだすのである。 なぜならば彼は創造者なのだからである。
もし人の世において成功を収め、 裕福な者となり、権力者ともなり、人としてのあらゆる享楽を完全に満たすなら、それは人としての最高の喜びであろう。しかしその百の喜びですら、みずからの世界をかち得た祖霊たちの たった一つの喜びに等しいものである。みずからの世界をかち得た祖霊の百の喜びも、 祭祀によって神のようになった者の一つの喜びにすぎず、祭祀によって神のようになった者の百の喜びも、半神たちの一つの喜びにすぎない。神およびに偽りなく欲望にとらわれていない ヴェーダ学者の一つの喜びにすぎず、
創造者の世界における一つの喜びにすぎず、偽りなく欲望にそこなわれていないヴェーダ学者の 一つの喜びにすぎない。
創造者の世界における百の喜びは、ブラフマンの世界における、そして、偽りなく欲望にそこなわれていない ヴェーダ学者の一つの喜びにすぎないのである。
そしてそれこそが最高の喜びであり、それがブラフマンの世界なのである。
同 4章3節
ヤージュニャヴァルキヤはこのように語った。
ヤージュニャヴァルキヤ(Yājñavalkya, 漢訳: 祭皮衣仙)は、インド哲学におけるウパニシャッド最大の哲人、「聖仙」とも称される古代インドの哲人。およそ紀元前750~前700年の人物。ウッダーラカ・アールニの弟子と伝えられ、梵我一如の哲理の先覚者として著名である。太陽神から授けられたという白ヤジュル・ヴェーダの創始者でヨーガ哲学の元祖ともいわれる。(wiki)
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