仏教のほうでよく使われる「般若」という言葉がありますがこれはサンスクリット語のプラジュニャーprajñā,パーリ語パンニャーpaññāの音写語ですのでそのままではなんのことか意味が全くわかりません。
〈慧(え)〉と漢訳され〈智慧〉という意味ですが、ほかに無分別智という訳もあります。この無分別智という語は他の仏教語や西洋哲学との関連もよく、般若の訳としては一番わかりやすいのではないかと思います。無分別智とは無分別の智慧のことで思慮分別によらない智とのことです。
難解な仏教用語と仏教教理ですが各宗派に共通である無分別智というキーワードでの考察を試みました。
まずは辞典による簡単な概要から。
無分別智
分別を離れた智慧。真如を把握する智慧。
(梵)nir-vikalpa-jñāna。
無分別智は菩薩によって獲得される智慧であり、言語による分別作用を離れた物事の本質を把握する智慧である。玄奘訳『摂大乗論』増上慧学分に「般若波羅蜜多と無分別智と差別有ることなし」(正蔵三一・一四八中)と説かれるように、般若波羅蜜と同義ともされる。
「浄土宗大辞典」より
無分別智
無分別心(むふんべつしん)、真智(しんち)、根本智(こんぽんち)ともいう。真如を把握する智慧。人間は言葉によってモノ/コトを概念化し分別するのだが、そのような分別知によっては捉えることのできないさとりの智慧を無分別智という。
wikiアーク 浄土真宗聖典
無分別智
大乗仏教の根本的立場を示す重要な語で、通常の主客対立にとらわれた見方(分別)を超えた智慧(ちえ)をいう。サンスクリット語ニル•ビカルパ・ジュニャーナnir-vikalpa-jñānaの訳。大乗仏教の根本経典である『般若経(はんにゃきょう)』は、菩薩(ぼさつ)の般若波羅蜜(はんにゃはらみつ)の実践として、言語習慣に拘泥した主客対立の分別を徹底的に否定したが、この否定に基づく智慧の立場を術語化した表現が無分別智である。したがって、無分別智そのものは言語表現を超えた境地であるが、唯識(ゆいしき)説ではこれを根本(こんぽん)無分別智とよび、この智を、その前段階である加行(けぎょう)無分別智や、当の根本無分別智の体験に基づいてふたたび言語表現の世界へ戻ってくる後得(ごとく)無分別智の二つと区別しながらも、これら三様のあり方をともに無分別智として認めている。無分別智に基づく仏教的考え方は、近代になって西田幾多郎(きたろう)の哲学などに大きな影響を与えたことが指摘されている。 [袴谷憲昭]
日本大百科全書(ニッポニカ)「無分別智」の解説
無分別智
nir-vikalpaka-jñāna 仏教用語。知られるものと知るものとの対立を超越した絶対知をいう。
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「無分別智」の解説
無分別智
(nir-vikalpa-jñāna の訳語)
仏語。主観と客観の対立を離れた絶対智。真理を見る心のはたらき。
日本国語大辞典「無分別智」の解説
無分別智
仏語。相対的な主観・客観の分別を離れた真実の智慧。識別・弁別する分別智に対して、それを超えた絶対的な智慧をいう。
デジタル大辞泉「無分別智」の解説
無分別
無分別 むふんべつ
[s: nirvikalpa]
分別から離れていること. 主体と客体を区別し対象を言葉や概念によって分析的に把握しようと しないこと。 この無分別による智慧を無分別智あるいは根本智と呼び, 根本智に基づいた上で対象のさまざまなあり方をとらわれなしに知る智慧を後得智と呼ぶ。
なお一般には、思慮がない、見さかいがない、わきまえがないなど、 悪い意味にも使われる。
「十界の衆生は品々に異なりといへども、実状相の理は一なるがゆゑに無分別なり」〔日蓮三世諸仏総勘文教相廃立]
「分別は惑ひ有るゆゑに分別を備ふるなり、 無分別智に到れば、分別已前に, 物を照らし分け、つひに惑ふことな し」 [盤珪語録]
岩波「仏教辞典」
無分別心
法身の菩薩は、無分別の心を得て、諸仏の智の用に相応し、唯だ法の力に依るのみにして、自然に修行し、真如に熏習して、無明を滅する。
大乗起信論
分別
分別(ふんべつ梵:vikalpa)とは、仏教において、心、心所が対象に対してはたらきかけ、それを思い計ることをいう。
凡夫の分別は、主観と事物との主客相対の上に成り立ち、対象を区別し分析するから、事実のありのままの姿の認識ではなく、主観によって組み立てられた差別相対の認識に過ぎないため、妄分別(もうふんべつ)である。それによって得られる智慧である分別智(ふんべつち)も一面的な智慧でしかない。それに対し、主客の対立を超えた真理を見る智慧を無分別智(むふんべつち)という。俗には無分別は「思慮の足りないこと」の意義で用いられるが、仏教では反対の用法である。
wiki「分別」
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