国宝・一編上人絵伝
人間本来の心
およそ、大乗仏教の仏法は、心の外に別の世界を考えることはない。すべてのものは始めもなければ終わりもない本源的で清浄なる心である。ところが、我に執着する※妄心に覆われて、その実体が現れにくい。
そのような人間の清浄なる心が、アミダ仏の本願の力によってアミダ仏と一体になるとき、人間の本来の心が開くのである。
極楽浄土がこの世界から10万億の仏国土を過ぎた彼方にあるということは、実際には距離のことではなく、人々の妄執がいかに浄土とかけ離れているかを示している。
それで善導はいっている。「人々は迷妄愛執が深いため、浄土との隔たりが実際には竹の皮ほどのものなのに、まるで彼此の間を千里もあると思っている。」だから「観無量寿経」にも『アミダ仏は此を去ること遠からず』と説いている。これはアミダ仏が人々の心から遠く離れていないということである。
一遍上人語録 巻下72
一遍(1239 - 1289)は鎌倉時代中期の僧侶。時宗の開祖。
外道
心の外に真実を求めるのを外道という。
心の外に対境を置いて念を起こすのを迷いという。
対境をなくした
「一なる」ところの
本来の心は妄念なし。
心と対境がそれぞれ別であり二つあると思うから生死流転するのである。
一遍上人語録 巻下66
国宝一編上人絵伝
畑に隠された宝
ひとりの貧しい女の畑に宝が埋まっていた。家族は誰もそのことを知らなかった。そこへ旅人がやってきて、告げた。「あなたの宝をほり出してあげるから、草を刈ってほしい」。
女は
「できません。もしあなたが私の息子に宝の埋まっている証拠を見せてくれるなら、あなたのために働いてもよいのですが」という。
その人は「私はやり方を知っているから、きっと見せてあげられます」という。
女は
「家の者が知らないのにどうして、あなたのようなよそ者に分かるのですか」といぶかる。
そこで、その人は実際に畑を掘って宝をとり出したので、その女は大へん喜び、まことに奇特なことと思って、その人を尊敬した。
あなたたちの内なる仏性もこれと同じことだ。誰もそれを見ることができないが、ただ如来だけがそれを知っている。畑に埋まっている宝とはあなたたちの内にある仏性をいうのである。
涅槃経
※【妄心】 もうじん
「もうしん」とも、仏語。
煩悩にけがされた心。迷いの心。誤った分別心のこと。
「妄心(もうしん)もし起こらば、知って随(したが)うことなかれ~」
弘法大師空海の言葉『秘蔵宝鑰(ひぞうほうやく)』より
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