5 初めての出会い
•••それは20代前半、22〜23くらいの事でした。仕事仲間が集まってよく麻雀やトランプ遊び、そして競馬の予想などしていました。ハイセイコーやタケホープの走っていた時代です。そうとう熱中していたので当時の馬の名前は今でも覚えているほどです。
さて、その日はポーカーやブリッジなどをしてひとしきりワイワイと騒ぎ、そのあと数人で別の部屋に移りました。その中に少し年長の人がいて、かなり禅の本を読んだらしくて、面白おかしくその話をして皆をケムに巻いていました。たとえばこんな話です‥
闇の夜に
鳴かぬカラスの
声きかば、
生まれる前の
父ぞ恋し 等々
他の人はあまり興味を示さなかったのですが私もいくらか禅の本を読んでいたので、その人の話し相手になりました。
あれこれと話しているうちにその人が私に何やらワケのわからない謎めいた質問を投げかけ、「この答えがわかる?」と言ってきました。
問いそのものは覚えていませんが、とにかくマトモな答えなどありそうもない質問でした。おそらく禅問答の中にでも出ていた話だったのでしょう。
「本当に答えがあるの?」と聞いたところ、「ある」と言うのです。答えが「ある」というその一言によって、私はその問いの中に吸い込まれたような状態になりました。
•••しばらくして、なにかがパッと心に現れました。
私は「アッ!」と思い
「わかった!」と声を出し
それから小さな声で答えました。なぜかというと問いと答えが全く関係なかったからです。
私の答えは「自分が見えた」でした。
「こんな答えでいいの?」と聞くとその年長の人は黙っていました。
私が「内なる人」と出会った初めての日のことです。
それは一瞬の出来事でしたが、私ははっきりと見たのです。私の意識の内に別の意識が存在しているのが確かに見えました。
円のような輪郭をもっていたのでハッキリそれとわかりました。その円は顔のようにもみえたのですが、眼もなく、耳もなく、鼻もなく、口もありません。その人はまるで眠っているかのようにただじっとして黙っているままでした。
不思議に思われるかもしれませんが、そのあとでオカシサがこみ上げてきて大笑いしました。
なぜなら
私が見たその人は、
私だったからなのです。
全く突然、思いもかけなかった場所から馴染み深い人があらわれ出たのです。「エッ、なぜそんな所にいるの?」といった感じでした。
おそらく生まれてからずっと一緒に居たでしょうに、全く気づいていなかったのです。
「意識が
意識を意識する」
その時の体験の説明としてはこのように言うのが最も適切であると思います。
はじめの「意識が」は、ふだんの私で、つぎの「意識を」は、今まで気づかなかった私の意識であり、最後の「意識する」は、見るということ、気づくという意味なの
です。
これを日常の言いかたに変えて「私が私を見た」とか「出会った」とか「自分を見た」とか言うわけです。
同じような表現がやはり体験の内容として使われていますので、私だけの異常な体験ではないようです。
○自覚意識は意識を対象とする意識である。
西田幾多郎
「左右田博士に答う」二
○自覚体験なるものには
「意識が意識を意識する」ということがなければならない。
同「叡智的世界」二
○自己自身の内を見る直観的自己、それはいわゆる意識された意識であってはならぬ、
「意識を意識する意識」でなければならない。
同「叡智的世界」五○般若は「無意識の意識」に相当する。
○悟ることは「無意識」を意識するという意識である。
鈴木大拙禅選集
「禅による生活」四
画 パウル•クレー「用心深い天使」
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