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盤珪不生禅/龍門寺の巻

2022-12-17 20:47:00 | 仏教の大意
龍門寺にて元禄3年冬(1689~90)、大結制が行われた。そこに参加した者、寺に逗留して帳簿に記された修行僧だけで1,683人であった。さらに外宿して会に列席した者は万をもって数えた、といわれる。曹洞・臨済の両宗を始めとし、律、真言、天台、浄土、門徒(真宗)、日蓮の各宗の僧侶が集まり、僧俗あわせた大勢の人々が法座を取り囲んだ。そこへ、盤珪が現われ聴衆に語り始める。盤珪六十九歳の時の説法である。

   

 一念不生

 この集まりには僧俗大勢いらっしゃるが、私が若い時分に、「一念不生」という事に気付きまして、そのことを説いて聞かせようとしている
のでございます。この「一念」と申すのは、すでに第二、第三に落ちた事でございます。僧のみなさんは不生の身でございますれば、不生の場には説くべきことも聞かせることもございません。ところで、仏心は不生にして✳霊明なものゆえに、事々物々にうつりやすく、その向かう物々に転じて変わりますので、仏心を念にし替えなさるなと申す事を、世俗の皆さんに説いて聞かせまするので、出家の方もご一緒に聞きなされ。

 ー禅師は大衆に示して言われた。

 不生の仏心

 皆さん、親がうみつけて下さったものは仏心ひとつでございます。ほかのものはひとつもうみつけはしません。 その親のうみつけて下さった仏心は、 不生で霊明なものにきわまりました。

 不生な仏心、仏心は不生で霊明なものでありまして、不生であらゆる事がととのいます。その証拠は、皆さんがこちらを向いて、私がこのように話しているのを聞いている間に、うしろの方で鴉の声、雀の声、それぞれの声を、聞こうと思う念を生じないにもかかわらず、鴉の声、雀の声が通じ分かれて、間違えずに聞こえるのが、不生で聞くというものでございます。

   

 このようにすべてのことが、不生でうまくととのいます。これが不生の証拠でございます。その不生で霊明なのが仏心にきわまったと決定し、直に不生の仏心のままでいる人は、今日から永遠に活き如来でございます。 今日から仏心でいますから、私どもの宗を仏心宗といいまする。

 さて、皆さんがこちらを向いておいでになる際に、うしろで啼くすずめの声を、からすの声とも間違えず、また鐘の音を太鼓の音とも聞き違えず、男の声を女の声とも聞き違えず、大人の声を子どもの声とも聞き違えず、みなそれぞれの声をひとつも聞き間違えずに、明瞭に聞き分けて、聞きそこなわずに聞くということ、これが霊明な働きというものでございます。ここをほかでもない、仏心は不生で霊明なものと言いまする。これが霊明な証拠でございます。   
     
  
 
 ところでもし自分は聞こうと思う念を生じていたから聞いたのである、という人がございますなら、それは妄語の人ございます。私がこう喋っているのを、こちらを向いて、盤珪はどんなことを言うのだろうと、皆さん耳を傾けて、一 心に聞こうとしておいでではありこそすれ、うしろで鴉やら雀やら、それぞれの声のするのを聞こうと思っている人は、一人もおりませぬ。しかるに思いがけずに
ヒョッヒョッと、それぞれの声が通じわかれて、聞きちがえずに聞こえるのは、不生の仏心で聞くからでございます。

  自分は前もって、それぞれの声がしたなら聞こうと覚悟していたから聞いたのだという人は、ここには一人もおりませぬ。ですから、不生の仏心で聞くというものでございます。不生にして霊明なのが仏心にきわまりきったというのを、人々皆決定して、不生の仏心でおいでになる人は、今日から未来永劫の活き如来と申すものでございます。

 もっとも、仏というのも生じたあとの名前でございますから、不生な人は諸仏のもとで、いるというものでございます。不生が一切のもと、不生が一切の始めでございます。不生よりほかに、一切の始めというものはございませんから、不生であれば、諸仏のもとでいるというものでございます。

 ところで、不生にしていれば、もはや不滅というのもむだ事ですから、私は、不生といって、不滅とは申しません。生じないものが、滅するということはないですから、不生であれば、不滅ということは言わなくともすむわけでございます。

 不生不滅ということは、昔からお経のあちこちに出ておりますが、不生の証拠がございません。ですから皆さん、ただ不生不滅とばかりおぼえて口にしますけれども、決定して不生な事を、ご存じないです。

 私が数えで二十六歳の時、はじめて一切のことは不生でととのうという事をわきまえましてから、このかた 四十年来、仏心とは、不生で霊明なものが仏心にきわまったという事の、その不生の証拠をもって人に話すということは、私が初めて言い出しました。 ただ今、この集りの中のお坊さんのなかに、私より先に、仏心は不生で霊明なものにきわまったという証拠をもって、人に教えられた人があって、それを自分はかつて聞いたことがあるという方はおられますまい。私が初めて証拠を示しましたです。

 不生でいますれば、一切のもとでいるというものでございます。むかしの仏が決定する所も不生の仏心。今は末世ですが、 一人でも不生でいる人があれば、正法が起ったというものでございます。皆さんそうじゃございませんか         
 
 禅師、一日大衆に示して言われた。

 迷いは身びいきのせい

 一切の迷いは全て身びいきのせいでありますから、迷いをつくる身びいきさえしなければ、一切の迷いは出てはきません。たとえば、となりで人が喧嘩をしますれば、こちらには非があり、こちらには道理があるという事が、明らかにわかれて聞こえますけれども、自分の身にかかわらない事なら、聞こえるだけで、自分の腹は立ちはしません。もし、自分の身にかかわれば、身びいきをいたしますから、相手にとり合って、仏心をつい修羅にしかえて、互いにののしりあいますわい。

 あるいはまた、仏心は霊明なゆえに、これまでに自分がしてきたすべての行為の影を映さぬということはございません。その映った影にとらわれれば、たちまちまた迷うことになります。 念というものは、われわれの心底から起るものではありません。これまでに見たり聞いたりした事が縁になって、その見聞きしたものが霊明な仏心に映っている状態、それが念というものでございます。もとより、念に実体はありはしませんから、映れば映るままに、起きれば起きるままに、やめばやむままにしておいて、その映る影にとらわれなければ迷いは生じません。とらわれなければ迷わないゆえに、いくら影が映っても映らないのと同じことで少しも妨げにならないので、払う念、断ずる念というものは一つもありはしませんわい。

 身の上批判

 ある和尚が私に言われるのに、あなたも毎日々々また同じ事ばかりを話さなくとも、合間には少し因縁話や故事物語などをもして、人の心がさわやかに入れ替わるように、説法を行われるのがよろしいのではないか、と言われました。私はこのように愚鈍ですけれども、人のためになることならば、愚鈍なりに故事の一つや二つは覚えようと思えば覚えられないこともありますまいが、そのような事を話すのは人々に毒を食わせるようなものでございますわい。毒を食わすようなことは、まずいたしません。

 私は、お釈迦さまの言葉や祖師の言葉を引いて人に示すこともいたしません。ただ人々の身の上のひはんですむ事でございますから、それで済むのに、さらにお釈迦さまの言葉を引く必要もありません。私は仏法も語らず、また禅法も語らず、説きようもありませんわい。みな人々の今日の身の上のひはんですむ事でございます。 

 凡夫

 今、ここにおられるかたがたは、一人も凡夫はおりませぬ。皆人々、不生の仏心ばかりでございます。 凡夫であると思われる方がいれば、これへ出なされ。凡夫は、どのやうなものが凡夫でありますと、いうて見なされ。

 ここには、一人も凡夫はおりませぬが、もしここを立たれ、敷居一つ越えて、人がひよっとぶつかるとか、後ろから突かれるとか、あるいは、宿へ帰りて、子供でも、下男下女でもあれ、我が気にいらぬことを、見るか聞くかすれば、すぐそれに貪着して、顔に血を上げて、身のひいきゆえに迷うて、つい仏心を修羅にし替えまする。そのし替える時までは、不生の仏心で居まして、凡夫ではございませんでしたが、一念、向うのものに貪着し、つい、ちょろりと凡夫に成ります
る。

 決定した人

 この不生の正法が、日本にも唐にも久しく世に絶えてすたれておりましたが、今日また再びこのように、世に起こりました。不生で霊明なのが仏心にきわまったという事を決定なされば、千万人の人、あるいは世のすべての人が寄り集まり、口をそろえてカラスをサギだといいくるめようとも、カラスは染めないでも黒く、サギは染めないでも白いものであるということは、ふだん見なれてよく知っていますので、どれほど人がいいくるめようとしてもいいくるめられないように、確かになりますわい。

 まずはそのように、不生で霊明なのが仏心、 仏心は不生にして一切事がととのうという事さえ、人々たしかに決定して知っていれば、もはや他人にだまされず、いいくるめられず、他人の惑わかしを受けぬようになれますわい。 そのようになった人を決定した人といって、すなわち今日不生の人で、永遠の活き如来でございます。

 わたしが若い時、はじめてこの不生の正法を説き出したころは、誰もが理解せず、
わたしを外道やキリンタン のように思いまして、人がおそろしがって、一人もより 付きませんでした。しかし次第に皆さんご自分の非を知りまして、これは正法であるという事をよく理解いたしまして、今は昔一人も寄りつかなかったのにかわって、あまり人がたずね過ぎて、わたしをせびり、せがんで会いたがって、一日たりともわたしを安楽に置かぬようになりましたわい。物には時節が有るものですわいの。わたしがここ に住んで、四十年にわたって人に教えを示してきましたので、この辺には善知識まさりな者が、多くできましたわい。
 
兵庫県網干の龍門寺

霊明れいめい
不可思議な力を備えて、明るくくもりのないこと。霊妙で明哲なこと。また、そのさま。  日本国語大辞典より






 
 



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