盤珪永琢(ばんけい ようたく/1622-1693)は、江戸時代前期の臨済宗の僧。不生禅を唱え、やさしい言葉で大名から庶民にいたるまで広く法を説いた。法名を授けられ弟子の礼をとった者五万人あまり。 wikipedia
盤珪禅師、丸亀養性山宝津寺にて、元禄三年(1689年)
八月二十三日、昼の説法
不生の仏心
私が皆さんに申し聞かせますのは、別の事でもございません、不生のことわりでございます。人々の身には仏心がそなわっているのですが、それをご存知ないので、私が申し聞かせるのでございます。
では、仏心がそなわっているとはどのような事かと申しますと、皆さんそれぞれのお宿よりこの場へ、私の説法を聞こうと思われてお出でになっていますが、説法を聴聞されるうちに、この寺の外で鐘がなれば鐘と、太鼓がなれば太鼓と聞き分け、犬が吠えれば犬の声と、カラスが鳴けばカラスの声と聞き分け、大人子供の声がすれば、大人子供と聞き分け、目には千差万別の色を見分けなさいます。
いずれの方もお宿からこの寺へまいろうとお出になるとき、私が法の話を申してる最中に、鐘太鼓が鳴れば鐘太鼓と知ろう、犬の声カラスの声がすれば犬の声カラスの声と知ろう、大人子供の声がすれば、大人子供の声と知ろうとは、前もって思いもせず、人より教えてもらうのでもありませんが、このように明らかに聞き分け、見分けできる
心のそなわっていますのを、不生不滅の仏心と申します。
たとえばスズメの声を聞かれたとき、「今のはカラスの声であった」と千万人が言おうとも、人に言い惑わされはしますまい。これがすなわち不生の仏心でございます。
見ようとも、聞こうとも思ってもいずに、目には色を見分け、耳には声を聞き分けなさる所が、不生と申すものでございます。不生ならば不滅でございます。不生不滅とは生ぜず滅せぬことです。生じたものは必ず滅しますが、生じないものが滅するわけがございません。
仏菩薩の世より、今の世の人に至るまで、仏心と申すものは不生不滅でございますので、おひとりおひとりにこの仏心が備わっているのでございます。その仏心の有ることをご存知ないことから、迷いなさるのです。
その迷いとはどのような事かと申しますと、それは我が身にひいきがある事によって迷います。我が身にひいきがあるとは、どのような事かと言いますなら、たとえば隣の人が自分を悪く言っている事を聞いては、それに腹立ち憤り、その人を見ては嫌悪したり、その人の言う事なす事を悪くとらえたりなどします事、これは我が身にひいきのあるせいでございます。このように憤り、腹を立てますと、わが身に備わっているところの仏心を、修羅道に取り替えてしまいます。また、隣の人が自分をほめているという事を聞きますなら、いまだほうびもなく、喜ばしい知らせもやってこぬ先に、早くも嬉しがるではありませんか。この喜びは何事かといえば、我が身にひいきがあるからでございます。
この身、親より産まれましたときには、憎いかわいいの念もなく、欲しい惜しいの念もなく、一切の迷いを親が産み付けはしません。これらはみな生まれて後、知恵が付きましてからこのような事を生じたのでございます。このように、憎いと思い、怒りの心になると、この仏心が修羅道となり、欲しい惜しいの心になりますと、この心が餓鬼道となります。これを生死流転の心といいまする。この身にひいきの有るゆえでございますので、この道理をとくと考えられ、怒り腹立ちの心もなく、憎いかわいいの念もなければ、すなわち不生不滅の仏心にかないまする。
このことについて、皆さんの心に納得できないことがありますれば、何なりとお尋ねなさい。それを尋ねる事に何の遠慮もいりません。このことは、今の世渡りの事について尋ねるのとは違って、未来永劫のためでございますから、不審な点は、今聞かれた方がよいのです。皆さんにまた私がお目にかかることは不定でありますから、このたび、何なりともご不審なことをお尋ねになって、とくとこの心の不生であることを納得なされば、皆さん一人一人のお得になるのでございます。
同二十五日、朝の説法
うつらうつら過ごした日々
このように夜明け前から大勢お集まりになり、私の話すことをお聴きになろうとしている心、それがすなわち仏心で不生の心でございます。朝早くからここへ来られましたのは、有難き説法だと思わなければ、このような志しは起りません。
ですから、ここにお集りの人々、お年五十にもなられた皆さまは、五十年の間、我が身に仏心の有ることも知らずに、またお年三十になられる方は三十年の間、我が身に仏心のあることをお知りにならずに、うつらうつらと月日を送られてきたのでございましたが、今日この場で、我が身に不生の仏心のそなわっていることわりを、とくと納得なされば、そのまま今日からどなたも仏でございます。
私がどなたへもお話ししますことは、何れもの不生であるということを、 納得させますまでのことでございます。ここをとくと納得なされれば、今日から仏心であって、永遠の後まで、釈迦•達磨とかわらぬ仏体を得て、二度とふたたび悪道に落ちることはございません。
しかし、私がお話し申し上げる不生のことわりを、この場でよく納得されても、また、 宿へ帰られて、何やかやにて腹を立て、怒りの念を
起しますなら、この不生のことわりをお聞きになる以前の罪よりさらに大きな罪になりまして、ただいま聞かれた不生の心を、修羅道や餓鬼道につくりかえて仏心を失い、流転なさるというものでございます。
皆さんのなかに、どなたも仏になることは厭だとおっしゃる方はひとりもございますまい。ですからどなたに向ってもお話しいたすわけです。 ここを納得なされるときは、今日から仏心でございます。
磨かれた鏡のたとえ
不生の心と申しますものは、とりもなおさず仏心でございます。この集まりの座では、皆さんわたくしが申し上げることをお聴きになろうとお思いになっているばかりでございますが、この寺の外で犬の声や物売りの声がするのを、この説法のあいだに聞こうと思ってはいなくても、各々の耳に聞こえます。これが不生の心というものでございます。
不生というものは、たとえば磨かれた鏡のようなものでございます。 鏡というものは、何であれ映りますと、自ら映そうとは思わなくても、何であれ鏡に対すればその色形が映らないではおかないものです。またその映っているものをのけますと、この鏡が映すまいと思うわけでもないのに、取りのければ 鏡に映りません。この不生の仏心と申すものはちょうどこのようなものでございます。
何であれ、見ましょう聞きましょうと思ったうえで、見聞きしますのは仏心ではございません。前もって見聞きしようと思いもしないのに、 ものが見えたり聞えたりするのは、 お一人お一人にそなわった仏心の働きによるものでございます。
このように、どなたにも納得していただけるように、不生のことわりをお話しいたしております。 今日のお話しさえもわかっていただけなければ、ほかの話をなんぼお聞きになっても無駄でございます。また、一度聞いただけでも、このことわりを納得された方は仏と申すものでございます。
どなたも今までは、惜しい欲しいと、またさまざまな怒り腹立ちを本意とされた悪い心で、仏心を修羅・餓鬼道にかえて流転なされていましたけれど、今日私の話しを聞きまして、これをとくとご納得されれば、惜しい欲しい、怒り腹立ちの心が、たちまち不生の仏心に成りまして、この仏心で居られることにより、今日より生き仏というものでございます。このたび仏心を取り損なうと、いつになっても仏には成れませんから、よくよく納得されるのがよろしい。
主な参考文献
岩波文庫 「盤珪禅師語録」
講談社 禅入門9「盤珪」
大東出版社「盤珪禅師説法」
筑摩書房「禅家語録」
✳岩波本に欠けていると思われる文や語句の差異が講談社本と読み比べるとにいくつかありましたので編集しています。
水月
うつるとも月も思わず
うつすとも水も思わぬ
広沢の池
これは剣の奥義をたとえたものでこの無心の境地を「水月の位」と言います。
東慶寺 水月観音
不生
見ようとも、聞こうとも思ってもいずに、目には色を見分け、耳には声を聞き分けなさる所が、「不生」と申すものでございます。盤珪
ふたつ比べるとわかりやすくなりますが、盤珪禅師の「不生」は禅で「無心」というのと同じもののようです。無心とは無分別心のことで分別も思案も何も無いときの心です。
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