らいん屋☆親父の『しらしんけん』に『一寸ずり』

大分の人生修行中の五十路親父です。
先の見えた人生です。『しらしんけん』⇒一所懸命・『一寸ずり』⇒少しずつ前進する。

昭和のおもちゃ

2009年06月17日 21時56分19秒 | 昭和への旅
昭和のおもちゃ


上の写真をクリックして、子供の頃を満喫してください。


大分県豊後高田市【昭和ロマン蔵】の、おもちゃ館です。

ぜひ、皆さん大分へお越しください。


うだうだ申しません。上の写真のスライドショーを見て、

子供の頃を思い出し、この不景気な時代を少しの時間、忘れてください。


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昭和の怪獣映画

2009年06月17日 06時16分32秒 | 昭和への旅
昭和の怪獣映画

上の画像をクリックすると、スライドショーが始まります。


親父の子供の頃の楽しみは、怪獣映画でした。

ちょっとした街には、必ず映画館がありました。

子供は怪獣映画、大人は日活ロマンポルノやったです。

あの時代の怪獣映画は、おもちゃ丸出しの街や戦車、ピアノ線も丸出しでした。

結構有名な俳優さんが出ていました。覚えているのは「モスラ」の、ザ・ピーナツですね。

大魔神には、親父の小学校の3歳上の先輩「二宮秀樹」さんが、出演していました。

テレビであった「マグマ大使」のガムです。

親父はポスターはなかったのですが【サンダ対ガイラ】が、好きでしたね。


ただ、昔の映画で一番覚えているのは、石原裕次郎主演の【花と竜】です。

昭和30年代にお父ちゃんと行きました。裕次郎が花札をなげて喧嘩するシーン

病院の窓から「俺は竜だ」と、言って飛び降りるシーン、脳裏に焼きついています。

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昭和の家電・カメラ等

2009年06月16日 18時36分19秒 | 昭和への旅
昭和の家電・カメラ等

上の写真をクリックすると、スライドショーが始まります。


大分県豊後高田市の【昭和の町】の家電です。

親父が子供の頃、ひとつひとつ家に増える、電化製品が嬉しかったです。

テレビが来る日は、朝から電気屋さんが来るのが楽しみで、家の前でずっと待っていました。

テレビが来た日は、親父の家は近所の人でいっぱいでした。

その当時は、近所のお医者さんとこしか無かったので、親父の所が2台目でした。


真空管が切れたら、電気屋さんが夜でも、来てくれる時代でした。

もちろん、テレビに緞帳は、ありましたよ。

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見な損!ダイハツのバタバタ

2009年06月12日 21時49分23秒 | 昭和への旅
昭和ロマン館の、車達です。

懐かしい車ばかりですが、その中でもやっぱりバタバタです。

エコカーの時代ですが昭和30年代日本の高度成長期には、こんな車が走ってました。

ばたばたと、音を響かせ走っていました。この車を持っている人は、珍しく

憧れの目で、見られたものです。親父の親父は、新物好きで、乗っていました。

写真ばっかり載せますので、懐かしく見てください。













ダイハツの大型の3輪自動車です。急ハンドルでひっくり返った車です。








日産の大型トラックです。この時代のダンプの荷台に、乗って喧嘩に行く、仁義なき戦いの映画が懐かしいです。

まだ、大八車・リアカーがあった時代に、スゴイ車でした。







かの有名なミゼットです。

この車も親父の家にありました。

この時代、車の免許があったか、定かではありませんが、近所の皆が親父の親父から借りていたのを、思い出します。






まだ、世界のホンダは、車を作っていなかった時代でした。

三菱はミニカ・鈴木はフロンティア・ダイハツはフェローでした。






懐かしい車ばかりですが、やっぱりバタバタが、親父の一番ですね。


最後まで見ていただいてありがとうございました。


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昭和の大衆食堂

2009年06月12日 19時16分31秒 | 昭和への旅
今日の昼飯は「豊後高田 昭和の町」の【大寅屋食堂】です。

親父の会社の若い者と、ほんまに旨い昼飯でした。

店の親父さんと奥さんと話しながら、楽しい食事のひと時でした。







大寅屋さんは、昭和55年から値段据え置きの大衆食堂です。

昭和の町の端のほうにあるので、探してください。





若い者は、肉うどんを注文、350円也。





親父は、名物のちゃんぽん、350円也。





それと、懐かしの大衆食堂のハヤシライス、400円也。





ちゃんぽんとハヤシライスで、腹いっぱいです。

旨かったです。懐かしいハヤシライスが最高でした。

ちゃんぽんも、親父にしては珍しくスープまで全部いただきました。

皆さんも「豊後高田 昭和の町」へ、そして【大寅屋食堂】へ。


親父、思います。この頃、エコエコと賑やかなことです。

親父もマイバッグ・エコバッグを持って、買い物に行きます。

ただ、昭和40年代頃は、買い物は買い物籠・ごみは木製のりんご箱でした。

八百屋・魚屋の包装紙は新聞紙・たこ焼きやの船はへぎ・お菓子屋はグラム売り。

目茶苦茶エコでした。今一度、あの時代を思い出し、親父は当たり前の事をしょう。


懐かしい車の内装写真等が、撮れたので後でアップします。


親父のブログを見ていただいて、ありがとうございました。

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懐かしき故郷の話

2009年06月06日 15時47分01秒 | 昭和への旅

今日の大分はやっと晴れ間が見えました。

こんな日に限って休みで焼酎をやりながらゴロゴロです。

今週、嬉しいブログを見つけました。

わが故郷のそれも、ガキの頃遊び・学び・やんちゃばっかりしていた、小さな町の話です。膳所と言うのですが、それはそれは人情あふれる城下町です。別名、膳所のフンドシ町です。京阪電車の駅が5つもある、長い町です。
JRと京阪にも膳所と言う駅がありますが、あれは正式には馬場で膳所では無いのです。

親父が始めてハンバーグと言う洋食をくったレストランの話題に、思わずコメントをさせていただきました。そして、丁寧な返・他の方からのコメント、ブログて良いものやなぁと、心底喜んでいます。
親父の独房から、すぐそこに、ふるさとが感じられます。

コメントにあった浜大津の風景・びわこ号・八木の3輪車・昔の食堂の表のサンプル(豊後高田の大黒食堂の現在です)の写真です。


     
     京阪石坂線浜大津付近

     

     京阪京津線びわこ号の連結部デッキ



     八木製麺製氷所が使っていた3輪(同型)



     昔、親父の所にもあった3輪



     昔の食堂・最先端のサンプルケース(現、豊後高田の大黒屋食堂)     

昭和の子供

2009年04月29日 12時42分04秒 | 昭和への旅
今日は「昭和の日」ですね。

親父ぐらいの年代の人達には「天皇誕生日」の方がピンときます。

昭和時代、30年代・40年代に子供だった人達にはゴールデンウィークて、あったかなぁ。

親父には、子供の頃に何処かへ旅行に連れて行ってもらった覚えが無いです。

休みは友達の家へ行ったり、野球やったり。

一番は、駄菓子屋へ行って、当てもんをするのが楽しみやったです。








     


ちょっと、季節は早いんですが、暑くなるとやっぱりカキ氷・キャンデー・クリームでした。

なかなか、今の街中では「昭和」を見ることが出来ません。

先日、行った昭和の街は、まるっきり昭和でした。

今、ブログを書いている悪ガキが走り回っている姿が、見えた思いがあります。


昭和の町のアルバムのアドレスです。良かったら見てください。
http://webryalbum.biglobe.ne.jp/myalbum/30176500060b8dd5ac868597e42ffab118c63f430/736928014813980421

大阪万博&東京タワー

2009年04月27日 17時00分21秒 | 昭和への旅
52歳スタートの日です。

親父の時代、関西の中学校の修学旅行は東京でした。

上の写真のような、東京タワーの置物が、懐かしいです。

東京タワーが樹脂の中に入った物、ペナントを買った覚えがあります。

小学校の修学旅行は、お伊勢さんでした。

親父の時代は、米を持っていったものです。

いつも、コメントを下さるKY先生が、担任でした。

二見が浦の前で、集合写真を撮ったのですが

その時代は、カメラのストロボが、マグネシュームか何かが、ボッと燃えました。







親父が中学1年生の時、大阪で【万国博覧会】が、開かれました。

「こんにちわ・こんにちわ、世界の国から」です。

今でこそ、外国の人は珍しくないですが

当時は、珍しく、万博で外国の人達がいっぱいおられ、びっくりしたのが一番の思い出です。

親父が、行ったパビリオンで一番覚えているのは、タンザニア館です。

メッチャ小さい展示場でしたが、黒人の人達と始めて、何か話していました。

12歳のことを今でも覚えているのですから、よっぽど良かったんだと思います。

タンザニア館とは、ほんまに変わった中学1年生ですね。


誕生日のお祝いのコメント・メールを色々な方々から戴きました。

ありがとうございます。ただ、親父、今も一人ですし、

いつものように、さびしい誕生日です。

まぁ、15年間ぐらい、ずっとコレやからなれてます。

今年は恩師・昔の友人からのコメント・メールが勇気になりました。

明日も6時からの工事やから、3時起きです。

昭和の町☆昔の風景

2009年04月25日 20時31分54秒 | 昭和への旅
親父の子供の頃、家に水道はありましたが

まだ、井戸の家もありました。

井戸水も何度も飲んでいるので、親父にはピロリ菌がいるかも?



  


たばこ屋は、写真みたいで看板娘かばあさんがいましたね。

小学生の時、東海道五十三次が流行り

永谷園のお茶付けのりのおまけだけでは気が済まず

たばこやをまわって、東海道五十三次のマッチを集めた思い出があります。







ゴミ箱・ガソリンスタンド・食堂のサンプル

全部ほんまに懐かしいです。いい時代でした。

昭和の町☆おもちゃ

2009年04月25日 19時59分11秒 | 昭和への旅
親父は子供の頃、おもちゃで遊んだ覚えがないです。

毎日、遊んでばっかりいましたが、外でずっと遊んでました。

おもちゃと言ったら、レーシングカーが流行った時の8の字のサーキットセットぐらい。

親父は近所の兄ちゃんなんかと野球をしたり、競走をしたり、外遊びばっかりでした。

めんこもよくやりました。ビー玉・銀玉鉄砲・ゴムちゅう、駄菓子やに売っている

おもちゃばかりで、それらを見ると懐かしかったです。


昭和の町には、懐かしいおもちゃの館があります。

すごい数のおもちゃ・グリコのおまけ・色々な小物があります。

親父が一番懐かしかったのは、ダッコちゃんかな。





    




昭和の町☆生活風景

2009年04月25日 18時49分01秒 | 昭和への旅
親父、ゆっくり一日ゴロゴロしていました。

この頃、取引先からもあまり電話が無いが

今日に限って、見積もり依頼や来週の工事の打ち合わせなど。

そろそろ、仕事が動き出したかな?

月曜日は朝5時半から宇佐へ工事に行きます。

開店前のショッピングモールのライン引きです。

明日も休みなので、何をしようかなぁ。


昭和の町の生活風景の写真です。

トイレの名前は忘れましたが、手洗いが懐かしかったです。










昭和の町☆電化製品

2009年04月25日 06時54分42秒 | 昭和への旅
おはようございます。

親父、昨日はうれしい事があったので、二日酔いです。

うまい焼酎をグビグビ、いきすぎました。

草なぎくんやないけど、いつ寝たか覚えていません。(いつもの事です。)


大分の朝は、春の嵐です。コンビニへ行きたいけど外出不可能です。


昨日の【昭和の町】は感激でした。

電気屋さんの店頭の電化製品が懐かしかったです。

親父のお父ちゃんは、新し物好きでしたので電化製品は何でもありました。




白黒テレビです。昔は緞帳が付いていましたね。

真空管が切れて、写らんようにになったら、夜でも電気屋さんが来てくれました。

親父の家の最初のカラーテレビは、東芝の「名門」でした。

日立のキドカラーの飛行船が思い出されます。

「ピタリコンの付いた、日立キドカラー」思わず、口ずさみました。




初めて、テープレコーダーが家に来た時、びっくりしたのを思い出します。

たしか、はじめて録音した声は「あーあー、本日は晴天なり」やったと思います。




初めてのビデオは、このソニーのベータでした。

ガシャッと、上に上がって括弧よかったのですが、親父は今もですが、録画はしません。

3つ上の兄(現在、中学の校長先生)が、ビデオカメラも持っていたので、使っていました。

何でも小さいほうが、良かったのにVHSに負けましたね。




カセットテープレコーダーは、小学校3年ぐらいの時に家に来たと思います。

小学館の英語の教材と一緒に、親が買ったのを覚えています。

親父、中学で英語が一番苦手と言うか、勝手に日本人が

何で外国の言葉を勉強せなあかんのやとか、言ってまったく英語はダメでした。

親の言うことを聞いて、カセットで勉強したら良かった。今、思います。




あの時代の電化製品といったら、洗濯機、三種の神器のひとつです。

横にかごを付けて、ハンドルを回すのが親父のお手伝いでした。

おだちんがほしいので、よくやりました。

おだちんをもらうと、すぐに、当てもん屋(当時の駄菓子屋)へ行ったものです。

それと、誰でも一度は、手を入れて回した事があると思います。


子供の頃の電化製品は、日本の高度成長の証でした。

懐かしく、そして一つ一つの電化製品が家に来る日、ワクワクしたのを思い出します。

今の時代と違って、電化製品一つで家族の連帯感・親父の威厳などが感じられた昭和

素晴しい時代でした。親父も後31時間あまりで52歳です。

昭和を31年・平成を21年、何とか生きてきたけど、

あんまり大した人生や無かったです。

夢は当の昔に破れ、夢・生きがいは無く、笑いも無くさびしい人生です。


52歳からは、笑って笑って、人生をおくりたいですね。


昭和の町☆鉄腕アトム

2009年04月24日 22時51分35秒 | 昭和への旅
親父の子供の頃のテレビで人気1番は「鉄腕アトム」でした。

親父が1番好きやったんは【ナショナルキッド】でした。

【エイトマン】も大好きで、足が速くなりたかったです。

【ナショナルキッド】は、胸にナショナルのロゴが入った、スーパーマンです。

2又電球からのスタート。ロマンがあります。







昭和の町にも、ロマンがありました。

鉄腕アトムは、親父の時代のヒーローでした。

昭和の町☆弁当箱

2009年04月24日 21時39分33秒 | 昭和への旅
【昭和の町】に、親父の子供の頃の弁当箱がいっぱいありました。

昔はアルマイトて言うた と、思います。




親父の弁当箱は右から2列目の下から2つ目でした。

王貞治さんが、印刷されていました。

毎日、おいしい弁当でした。ばぁちゃん、ありがとうございました。


【色々な弁当箱】








続きはアトムでいきます。

昭和の町☆時代のくるま達

2009年04月24日 20時22分44秒 | 昭和への旅
「昭和の町」には、なつかしいクルマ達がいっぱいいました。

親父のお父ちゃんは、新し物好きで、毎年車を乗り換えていました。

昭和40年代だから、すごい事です。














今、見たら昔の車は小さいですね。

けど、この車達が日本を作ってくれたのです。

昭和の町のナンバーが付いている車は、走るみたいです。

親父も負けずに、走らなあかんなぁ!!!