じんべえ時悠帖Ⅱ

蒲生一里塚でチェアリング

 今日は12月8日は太平洋戦争の開戦記念日。真珠湾攻撃の

指揮を執った山本五十六(新潟長岡出身)も、終戦の年の

3月、硫黄島の指揮を執った栗林忠道(長野松代出身)も、

アメリカへの軍人留学で彼我の国力差を知り尽くしていた

ので「開戦反対派」であった。皮肉としか言いようがない。

 

 さて、日光街道ウォーク3日目(12/5)の続きである。

名所「草加松原」が始まるところ、西から流れて来た伝右

(デンウ)川が綾瀬川に寄り沿うように南に向かう。

 木橋を渡った先は二つの川に挟まれた細長い札場(フダバ)

河岸公園。「札場」という屋号を持つ野口甚左衛門の私的な

荷揚げ場だったのが札場河岸。草加松原方向へ戻ると見事な

紅葉である。

 草加松原のスタート地点にあるのが五角形の木造望楼。

日光街道と綾瀬川の舟運の監視の両方可能だが、昔から

あったのかどうかは不明である。

 約1.5キロ続く草加松原には矢立橋、百代橋という二つの

大きな太鼓橋がある。最初の県道(草加ー流山線)を渡る

矢立て橋に上ってみる。

 東方の八潮、三郷方向、この県道は車でよく通る道で、

この交差点で左折し環七へと向かう。

 二つ目の百代橋はパスして北へと歩く。日曜日のせいか

ジョギングやウォーキングを楽しむ老若男女が多い?!

たまたま誰もいない写真である。

 草加松原の終点、大きな勾玉の先に外環道が横たわり、

そこを潜って綾瀬川沿いを進む。

 やがて、蒲生大橋を渡ると越谷市に入るが、見えている

茂みは蒲生一里塚であろう。日本橋から五番目である。

 日光街道の一里塚で埼玉県内に唯一残るのがこの蒲生の

一里塚という。小さな愛宕神社の祠の前にはお誂え向きの

ベンチ。まさにチェアリングの昼食時である。

 足元と銀杏の枝にたくさんの鳩が集まって来る中、例に

よってコンビニの昆布おにぎりと言いたいが、何故か売り

切れで今日は南高梅。缶入りの日本酒を五杓ほど。

 

 腰を上げて綾瀬川沿いを越ヶ谷宿に向かう続きは次回。

 

 

 

 

 

 

 

 


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

コメント一覧

jinbei1947
えめらるど様
開戦記念日や真珠湾攻撃の報道の中、9軍神から漏れた一人の名誉回復の
記事もいくつか見受けます。
4年の捕虜生活の後に帰国、トヨタブラジルの社長まで務め八十一歳で
亡くなったそうです。
片道切符の潜航艇、果たして戦果があったのかどうか・・・。
jinbei1947
ワイコマ様
戦争体験を生で語れる人はどんどん鬼籍に入って行き、我々はまた聞き世代。
それでも語り継ぐことがだいじですね、頑張りましょう。
えめ
昭和20年4月に、島田は長野中学3年を修了して海軍兵学校へ入りました。(青田刈りで1年早く予科として創設されました)毎日英語と水泳でしごかれ、4ヶ月で終戦になって元の中学の元のクラスへ戻ったそうです。やがて小学校から旧制高校など様々な学校の同窓会に飛び歩きましたが、海兵からは多くの有名人が出たようです。もうみんな死んでしまい、空しさを感じます。そう言えば、真珠湾攻撃で26歳で戦死した9軍神達も海兵出身だった由、改めて親の気持ちに涙が出ます。
ykoma1949
12月8日、開戦の日と多くの人たちが書いて
くれると思ったので、敢えて避けました。
それぞれ色んな思い考えがあったのでしょうが
今更我々がそのことを語っても、虚しさが
残るばかりです。私の父親のように無事に帰還して、勲章や恩給をもらった人は幸運
でも毎年戦友会で戦没者を偲んでいました
今我々は、不戦の国家を如何に平和に維持するか
我々の大きな責務と思います。
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「日記」カテゴリーもっと見る