「甘うておいしい菓子を、こうぇえ顔して食べる人は
おらんでしょう」(今の朝ドラの主人公 安子)
人は落ち込めば食欲をなくし、言葉も失い、歌を忘れる。
その凍りついた口元をゆるませるのが餡子(アンコ)の甘味。
(今朝の「折々のことば」鷲田清一)
昨日はクリスマス・イブ、我が家も久々に甘いケーキを
食べた。小麦粉、バター、砂糖など軒並み値上げで小さな
小さなケーキであった。
今年もあと一週間、残業代も付かず走り続けて来た教師
たちもやっと休みになった。
さて、日光街道6日目、幸手(サッテ)宿の中心部である。
その前に「擔景寺入口」の看板に誘われて小道を辿る。
今回は寺社仏閣の寄り道が多い。
(擔は担の旧字、昔は擔任と書いたわけだ)
しかし、地図では常光寺なのだが・・・。
珍しく本堂脇に灰皿付きの休憩コーナーが設えられている
ので、境内に多い大きな庭石を眺めながら一服休憩とする。
ふと見ると隣にもお寺さん、これが常光寺であった。
朱泥色の山門脇の庚申塔などの置き方が好い。境内の墓地は
いずれも最近の省面積型の三通りがある。
旧街道に戻って先に進むと古い酒屋さん。新潟の久保田、
山口の獺祭、幸手の地酒は「幸手」だが・・・・。
次の交差点が幸手宿の中心部、ちょっと雑然としている
小公園がある。
しかし、幸手宿の解説板は真ん中の大きな街道絵をはじめ
として詳細である。この町の力の入れようがわかる。東照宮
参拝の途中で八代将軍吉宗が食べたという昼食の献立までが
記されている(矢印)。
因みに、おかずはいろいろな煮付けが多く、ご飯に胡椒と
砂糖が添えられている。吉宗の好みであろうと解説される。
この公園が問屋場のあったところ、道を挟んで本陣だが、
名主、本陣、問屋場の三つを兼ねたのが「知久家」。
初代帯刀(タテワキ)は信州伊奈の豪族の出、同郷の関東群代、
伊奈熊蔵にこの幸手宿の中心である久喜町の開発を命じられ、
明治になって本陣が廃止されるまで諸役を務めたという。
知久家の屋敷は約千坪、明治の学制がはじまった時には
その書院が小学校に充てられた。その本陣跡は今は義語屋
という割烹、昼食をと思うが「敷居が高い」。
問屋場跡の公園に戻りベンチでいつものおにぎり昼食。
脇の「勤労福祉会館」の階段を上がってみる。知久家の
屋敷跡なのか、現住のようでもある。
ゆっくりと昼食休憩を取り先へ進む。幸手出身の俳人、
中野允充(サンイン)、允の読みはロープをずらして確認した。
正岡子規の直門、戦災で焼けた東京根岸の子規邸の復興に
尽力したと書かれる。
この先、右にカーブするところが幸手宿の終わりである。
その手前左の細い路地の奥の聖福寺は幼稚園併設で昼間は
墓詣りだけ。参道脇の街道絵を眺める。
それよりもこの「お知らせ」の方が面白い。大人よりも、
未来を託す子供向けなのだろう。
宿場の最後は桝形になっていたようで、カーブの後で
クランクする。その角にあるのが幸手一里塚。正福寺の
後で撮ろうと思って忘れたのでこの写真で代用。
この道は、桜の名所「権現堤」へのルートなので前にも
歩いているが突き当りの正福寺に入るのは初めて。常夜灯、
石燈籠など石もすべて大きい。
その割に本堂は平屋のコンクリート製、なにかチグハグ
な感じである。馬頭館音塔は杉戸の宝性寺と大きさ、形が
同じ。ならばと脇を見るとやはり「日光道中」の文字。
街道に戻って先へ進む。午後1時、ゴールの南栗橋駅までは
未だ半分も来ていない。続きは次回。