「ブルータスよお前もか」「自動車メーカーにあってはならない
こと」。認証不正でのトヨタの豊田会長のコメントはまるで他人事、
第三者的で、自社の製造現場でさえ遠い世界のことのようである。
タイトル「自動車の検査より先『人検査』」は今朝の「天声人語」
に書かれた昨年の朝日川柳。「人」は現場ではなく責任者、経営者と
読もう。自動車業界だけでなく、今の日本は遍(アマネ)くおかしい。
さて、約四半世紀前の「日本一周伊能ウォーク」は、伊能忠敬測量
開始200年記念(兼朝日新聞創刊120年記念)であった。
2年間職場を離れ、あるいは退職し、あるいは退職後のボランティア
活動や余暇を離れ、1万1千キロを歩き通した「本部隊員」15人。実は
もう一人いたが仕事の都合で途中で離脱している。
年齢は30歳代1、50歳代5、60歳代6、70歳代3、平均年齢は61歳。
いずれも当時であるから、既に鬼籍に入った方もおられれよう。
まずレディファーストで3人の女性の横顔を。
一番若い34歳の女性は人生の次の目標を見つけるべくコンピュータ
関連の大手企業を退職し参加。毎日のレポート送信を担当した。
58歳女性、夫の定年後二人で日本一周と思っていたが夫が亡くなって
しまい二人分を歩いた。完全燃焼してしまいたいと思ったが「子どもも
いるじゃないか、身勝手すぎる」という夫の声が天から聞こえた。
年齢不詳の女性は、就職試験で尊敬する人は伊能忠敬と答えた。以降、
万博・沖縄博協会、国会議員公設秘書などキャリヤウーマン。ゴールの
後、出身大学の総長から「大学の誇り」と言う祝電とワインが届いた。
次に男性陣。
大内隊長は有名人になったので実名で。まず名前がいい、大内惣之亟
(ソウノジョウ)。商社を定年後、船橋ウォーキング(当初は歩け歩け)協会
から伊能ウォークプレ大会に歩行役員として参加したのが縁で隊長に。
最年長の男性は77歳。70歳まで技術系の仕事を続け、毎日10Kmは
歩いていた。家族に伊能ウォークの募集パンフレットを見せ先に寝た。
翌朝、高齢を心配する家族から「好きにしたら」の返事を引き出した。
唯一ソウル在住の韓国人もいた。ソウルで見た伊能ウォークの新聞広告。
それが行われる2年後には忠敬が測量を始めた55歳に自分もなる。近くて
遠い国と言われる日本を知るにはいい機会だ。ソウル大学外交学科卒。
60歳前後には、現役・嘱託を含め早めに退職して参加した人が多い。
第2の人生の出発点にということだろう。小中学校の教師出身が4名と
多いのも特徴。海保出身、地理学者などその他の職業も多彩である。
本部隊員は、都道府県ごとに1~2回開催される大会でも概ね20Km
を歩く。正味9,600Km余りの日本一周が11,030Kmになる。デイリーと
呼ばれる当日参加者の受付もある。途中病気治療で2か月休んだ隊員も
いた。大袈裟に言えば「命懸け」のウォーキングだったと言える。
完歩の翌日、伊能忠敬記念館がある佐原市役所(現香取市)で解団式
が行われた。後ろは全国432市町村長が署名した伊能小図である。隊員と
隊長補佐、荷物運搬などの本隊スタッフも入っている。後列中央が大内
隊長である。