じんべえ時悠帖Ⅱ

成田街道、酒々井(シスイ)宿へ

 今回の出発前、酒々井アウトレット・モールをネット検索した。

そして、「酒々井」は(ササイ)ではなく(シスイ)と読むことを初めて

知った。やはり、旅は勉強である。

 「ささい」と打っても酒々井が出て来るのは苗字があるからで、

岐阜の飛騨など全国でわずか90名ほどの酒々井さんがいる。また、

酒々井(あるいは鈴井)をシズイと読む苗字もあるようだ。

 

 ともあれ、国道296号から県道に左折して酒々井宿に入った。

酒々井は本佐倉城の城下町、宿場町、江戸幕府直轄の野馬牧場

である佐倉七牧の野馬会所があって栄えたところである。

 早速旧家が続く。最初は油屋として栄えた「荕吉五郎宅」。

荕は(スジ)と読むのだろうか。江戸時代には油屋として、明治

になってからは醤油醸造業で栄えたという。

 次は幕府野馬御用を勤めた島田家住宅。街道沿いの住家の奥、

広い野馬会所や野馬払い場があったという。

 尚、千葉県印旛郡酒々井町は明治22年に発足して以降、一度も

合併したことはなく「日本最古の町」という。人口は2万人ほど。

 この先に「左、本佐倉城址、勝蔵院」の表示板。本佐倉城址には

ここから入る方が少し近いことは地図でわかっていたが、長い寄り

道は脚が元気な朝のうちにと前述のルートを取った次第である。

 突き当りの勝蔵院には山門奥の本堂に江戸初期の不動明王坐像が

あると言うのでガラス戸越しに覗いてみる。

 この先、街道に戻らず脇道を進むと「酒々井」の地名の元に

なった「酒の井」がある。ボタンを押して伝説の朗読を聴いた後、

奥のベンチで一服休憩。忙中閑あり、今日もゆっくりモード。

 「孝行息子が毎日仕事の帰りに酒を買い、酒好きの年老いた

父に飲ませていたが、稼ぎがなく酒を買えない日、この井戸を

通ると酒のいい香りがする。汲んで帰り父に飲ませると本物の

酒だった。息子以外が汲むとただの酒」という伝説の井戸。

 街道に戻ると酒々井の鎮守「下宿麻加多神社」。後冷泉天皇

時代の開創というから千年の歴史がある。右クランクの奥に小さな

社殿があるが、これもずいぶんと古そうである。

 成田街道はこの先「下り松」と呼ばれる下り坂。酒々井宿の

出口あたりかも知れない。昔は追剥ぎも出たという暗い道だった

というが今は明るい広い道。

 遠く見えるのは順天堂大学の「さくらキャンパス」。さくら(佐倉)

というが住所は印西市である。スポーツ科学健康学部、医療科学

研究科などがあるらしい。

 三つ並ぶ石塔群、大きな石碑には出羽三山の文字が刻まれる。

 左折して成田市の宗吾霊堂に向かう県道と別れた成田街道は

静かな旧道となる。三叉路の道標、左は「ニ王ミち」、これも

カタカナ、漢字、ひらがなのミックス。江戸の時代は自由奔放。

 因みに「ニ王」は佐倉岩名の仁王尊。右の道標は読めないが、

酒々井停車場道と刻まれているらしい。

 ここから数百メートルで国道51号線に合流する。国道51号は

千葉から水戸に向かう道である。ここから北上して利根川を渡り

海沿いに出て水戸に至る。

 続きは次回。

 

 

 


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コメント一覧

jinbei1947
ワイコマ様
利根川を歩いて香取を通り、霞ケ浦一周の中継基地としてアヤメの時季の潮来に
泊まりました。
鹿島は仕事でしばらく通いましたがとんでもないお客さんで工事や追加請求
に苦労しました。
ykoma1949
酒々井は電車で通り過ぎるだけの街でしたが、酒々井宿の様子
よ~くわかりました。私が成田を去ってから、数年後に弟が
当時の住友金属鹿島工場に10年ほど勤めたので・・その折
この国道51号を鹿島臨海工業団地迄、何度か往復しました。
懐かしい国道の名前が出てきて・・昔を思い出しております
もう何年も行ってない、成田や潮来、香取、そして鹿島が・・
思い出に耽ってしまいました。
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