じんべえ時悠帖Ⅱ

ニイタカヤマノボレ

 今日は太平洋戦争の開戦記念日。真珠湾攻撃の指揮を執った

のは、新潟県古志郡長岡本町(現長岡市)出身の、山本五十六

聯合艦隊司令長官。

 昭和十八年四月、南太平洋の前線視察飛行の暗号を米軍に

解読され撃墜され戦死した。「日本に山本以上の優秀な司令官

はいない。山本を討てば日本の意気は下がる」としての暗殺で

あった。

 そして奇しくもこの日、山本有三の戯曲「米百俵」が世に

出た。小泉純三元首相が就任演説で引用した話である。


 戊辰戦争で最も激烈だった北越戦争に敗れた長岡藩は困窮

の極みにあった。米百俵の救援物資に住民は喜び、我先にと

手を伸ばした。それを止めたのが長岡藩家老の小林虎三郎。

 一日、二日で食いつぶすより、これを元手に明日の長岡を

背負う人材を育てる学校を作ろうと説得したのである。

 やがてこの理想は実現して「国漢学校」が出来、虎三郎の

弟、雄三郎が主宰する育英制度「長岡社」も出来た。


 この流れを汲む「長岡中学」を出たのが山本五十六である。

昭和十四年九月、山本五十六は五十六歳、国運を担って登場

する。武官として米国留学をした彼は、彼我の国力の差を熟知

して開戦に反対であったが、時雲はそれを許さなかった。

 「旧長岡藩から、長岡中学から、長岡社から、大日本の

聯合艦隊司令長官が出たことを胸においてくれ」と同郷の

友人に語ったという。別れの言葉だったのだろう。

 同じように武官として米国留学をし、同じように開戦に

反対だったのが、最後の硫黄島総指揮官、栗林中将である。

栗林忠道中将は、長岡とは信濃川(千曲川)で繋がる長野

の松代町(現長野市)出身で長野中学の一期生である。


長岡駅前通り、ウインドーに山本五十六の名言

 長岡出身の独語学者、星野慎一が山本有三を訪れて、

「真実一路」の独訳をさせて欲しいと頼んだ折、小林

虎三郎の逸話を話したのが戯曲「米百俵」の発端と

なった。星野慎一は「星の王子さま」の訳者である。

長岡市の信濃川河畔に星野慎一の詩碑が立つ。

                       写真はいずれも2017年5月

 




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コメント一覧

jinbei1947
私がもし車を運転していたら、どんな人生になったか。
少なくとも今のように「馬鹿みたいに」歩くことは
なかったでしょう。
仕事柄、機械ものは何でも限界性能を試したくなるので、
多分短い人生になったことと思います。
えめ
今現在、パソコンの前に居られるらしいので、お便りします。
これからお歩きになるのですか。当方これからお札の調整の為に、辰野の家に向かいます。こっちは車です。学力では敵わないが、文明の利器を使って居るのだぞ。えへん。
jinbei1947
ワイコマ様
信濃川を歩いた時、長岡に一泊して2日続けて歩きました。
夜の居酒屋と信濃川沿いしか知りませんが、北越列藩同盟
として戊辰戦争で筋を通した長岡藩のファンになりました。
jinbei1947
えめらるど様
ぺりー来航の折、降伏の意である白旗を日本の役人に渡した
のを見た佐久間象山が猛然と抗議したと言います。
それから九十年あまり、この屈辱を山本五十六が真珠湾攻撃で
見事晴らしてくれて感動した、と我が高校の恩師、象山研究家
の故山口義孝先生が著書に書いています。
ykoma1949
長岡、私の子供も長岡技科大にも合格して、
豊橋技科大にも合格して、神戸大学と三択
の中で娘が岡崎に進学したので、やむ無く
豊橋に行ってしまいましたが、親友は長岡
技科大で今も教鞭をとってます。
以前は信州に帰らずに長岡に行ってました
良いところです。
えめらるど
「臨時ニュースを申し上げます。臨時ニュースを申し上げます。大本営陸海軍部、12月8日午前6時発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。」このラジオの声と、海ゆかばの音楽は、今なお胸の底に残っています。山本五十六元帥に憧れて、夫はじんべい様の母校の長野中学から、海軍兵学校に入ったそうです。
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