じんべえ時悠帖Ⅱ

日光例幣使街道、境宿

 日光へ向かう例幣使街道中で唯一右手に赤城山を望む「右赤城」を

過ぎて広瀬川に向かうところ。武士(タケシ)橋の袂に向かう国道142号

と別れ、旧街道は一足先に広瀬川の土手に向かう。

 橋の袂に着くと「竹石(タケシ)の渡し」の石碑、口碑などが立つ。

下武士村の名主が渡船や川止めを管理し、例幣使が通る時は隣村から

追加の舟を借り人足200人を出して渡船したことなどが書かれる。

 対岸には赤城山を背景にして境西中、境剛士小が並ぶ。2005年に

伊勢崎市となった境町は佐波郡と那波郡の「境」にあった。

 橋を渡ると例幣使街道は再び県道から左に別れ1キロほどの旧道と

なる。正面に見える小山あたりに一里塚があったらしい。そう言えば、

例幣使街道では「一里塚」があまり出て来ない。

 旧街道のほゞ中間あたりの稲荷大明神に大きな一本松。「八海山」

書かれた口碑には、遠方に行けない人々に越後三山、木曽御嶽山を

分祀した築山が造られたこと、高札場があったことなどが書かれる。

 一旦県道に出てすぐに、今度は右手に入った旧街道が戻った交差点が

境宿の入口。次の交差点の先のスーパーの駐車場の一角に織間家本陣跡

の碑が立つ。

 老朽化した飯島家に代わって江戸中期から本陣になった織間家の

主人は俳人でもあった。江戸から信州へ帰る途中に寄った小林一茶。

主人が留守と聞いて詠んだ句が「時烏我が身ばかりに降る雨か」。

 次の堺駅入口交差点の蕎麦屋のあたりは昔の居酒屋「桐屋」の跡。

国定忠治の子分、三ツ木の文蔵が無銭飲食して暴れ、諫めた島村の

伊三郎を怨んで殺したという怖い伝説があるところ。

 泊まることの出来ない「間(アイノ)宿」だった境宿が本宿になったのは

幕末のこと。次の木崎宿へ向かう角に着くが、このあたりは宿場特有の

「桝形」になっていたようで、県道を南に渡りまた戻って来る道筋という

ことは後で知る よって木崎宿への標柱など見逃す。

 この先の例幣使街道は宅地開発で遮断されはっきりとはしない。

1キロほど行った法楽寺脇の踏切を渡ることだけは確かなようである。

法楽寺に寄ってから東武伊勢崎線の踏切を渡り木崎宿へと向かう。

 下調べが不足だったようで、この境宿はイマイチ消化不良だった。

 渡った先も斜めだった旧道は消滅。区画整理された大きな通りを右に

左にと曲がりながら境町(伊勢崎市)の東端、三ツ木地区を進む。

木崎宿への続きは次回。

 

 

 

 

 

 


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