今日は二十四節気の大雪(タイセツ)。約半月前の小雪の日も
明け方で十度を超える暖かな朝だったが、今朝も昨日までの
3~4℃よりもだいぶ暖かい。曇りから雨の予報である。
さて、夕暮れ近くに草加宿の入口に着いた日光街道歩きの
2日目。草加駅入口の交差点までの数百メートルは、古屋が
少し残る程度で街道らしいものは何もなし。
次の3日目(12/5)、まず草加駅の脇にある観光案内所を
訪れるが、ネットでは10時オープンとなっているのに扉には
10時半の表示。止む無くウインドーの大きな宿場絵を撮る。
背後に山(右は浅間かも)が見え、手前の流れは綾瀬川と
すれば、姐さん被りや振分荷物の旅人は江戸を目指す。
歌川広重の一連の街道絵の一枚のようである。
前回のゴール、明治のものという草加道路元標がやけに
白いのは最近磨かれたのだろう。日曜日の10時過ぎ、昔の
日光街道は静かである。
ところがこの静寂を破る一行がいた。久喜市から来たと
いう一行で、何とかいう歩く会の下見という。七、ハ名の
お年寄りグループである。
本陣跡碑では一行をやり過ごしてから写真を撮る。
宝暦年間(1700年代半ば)までは大川家(後に出て来る)、
以降明治までは清水家と書かれる。ここは多分清水家の
本陣跡であろう。
昔々、「おせん」さんが売れ残った団子を平らにして
醤油をつけて焼いたところ、美味しいと評判になったと
いうのが草加煎餅の由来。
その「おせん茶屋」跡の休憩所に御一行様が先着して
いた。
古い商家跡の観光案内所も戸は閉まったまゝ。草加の人は
みな寝坊らしい。
元祖草加煎餅とは言わない、元祖源兵衛せんべい。
草加小学校は草加宿を開いた大川図書(ズショ)の屋敷が
あったところ。大川本陣もこの一画だったのであろうか。
大川図書は北条家の家来、小田原城落城で浪人となるが、
朋友伊奈備前守の助けでこのあたりに土着。隣の東福寺を
起こして自らもそこに眠る。
街道から少し奥まった東福寺。山門はがっしりとした
四脚門である。
宿場の終わりのサインであるカーブ。その手前の案内所は
中年の御婦人が掃除中。オープン間もなくという感じだが、
少なくとも開いているので覗いてみる。
中の写真を撮らなかったので、外観の写真を思い切り
明度アップしてみた。
淹れたてという熱い焙じ茶をいただく。涼しい朝方には
嬉しい限り。この建物は魚屋、飲食業だったという久野家
(大津屋)跡。明治三年の草加宿の大火でも隣の神明神社
と風向きのお陰で残ったと言う。
この先で、草加宿の入口で別れた旧国道4号と合流。
その角が「おせん公園」で、芭蕉が行き先を指している。
向かい側は大きくて趣の良い食事処だが、まだ11時では
昼にはチト早い。旧国道4号(今は県道49号)を渡って、
名所「草加松原」となる。
「越ヶ谷」宿までの続きは次回。