猛暑の夏はお休みした「中山道を歩く関東編」を、一昨日、
大宮から再開。上尾宿までの約10キロを歩いた。
大宮駅東口からすずらん通りを抜ける。前回、大宮宿本陣跡の
「旅籠屋次郎」を探すため数回も往復した通りである。
旧中山道に出ると、東口再開発のシンボルビルの新築工事
が嫌でも目に入る。最高部は地上90mになる大型複合ビルの
工事風景については、別途紹介するつもりである。
今日は、江戸初期の中山道であった氷川神社参道を歩いて
から旧中山道に戻る。駅前からの大通りを進むと、約2キロ
ある参道の中間点、二の鳥居に出る。
三本ある通りの外側二本が車道で真ん中が歩道。散歩やジョ
ギングを楽しむ人が多い。ここを歩くのは二度目か三度目。
約1キロで三の鳥居が見えてくると、東京遷都の明治元年、
天皇が東京に来た十月、早速その月末に武蔵一宮の氷川神社へ
行幸した折の行列の絵が長く続く。
その先、楼門に向かう太鼓橋から三の鳥居を振り返ると、
参道が大きくカーブしている。2キロも真っすぐに続いた参道
の最後が曲がる理由は、この氷川神社の歴史にある。
氷川神社の略記には出てこないが、ここは元々先住民の
信仰していた荒波々畿(アラハバキ)社と呼ばれいた。
その後、出雲国簸川(ヒカワ)地方からの来訪者(客人)が
水稲農耕を開いたため、アラハバキは彼らが信仰する氷川
神社に本社を譲り、自らは逆に「客人」として摂社になった
のである。
しかし、参道正面の位置だけは譲らなかった。その理由は
下図である。富士山と筑波山を結ぶ線上で、かつ夏至の日に
陽が沈む浅間山と上野国一宮の貫前(ヌキサキ)神社、妙義神社
などを結んだ線との交点なのである。
更に東南東への延長線上に氷川女体神社、中川神社が位置し、
氷川神社と併せた三社を「武蔵一宮」とする説もある。
当然ながら、更に東南東への延長線上に夏至の陽が昇る訳で
ある。古代の農耕にとって重要な「暦」の基準だったのだろう。
この図と歴史的推測は、岸本豊著「中山道浪漫の旅(東編)」
(信濃毎日新聞社)による。
氷川神社の「略記」にある境内案内図に、この位置関係を
描いてみたのが下図である。
氷川神社の東門を出た左手、ひっそりと佇む小さな祠が
「門客人神社」、元の荒波々畿社である。
その脇の瓢箪池を眺めてから、氷川神社の神領であった広大
な大宮公園を抜けて裏参道に向かう。
東西700m、南北900m、68ヘクタールの大宮公園には、
J2大宮アルディージャのホームであるNACK5スタジアム、
県営球場や大宮競輪場などもある。
公園の一画に青木昆陽の碑が立つ。その聡明さと高潔な人格
が大岡越前の耳に入り、幕府に仕えるようになった青木昆陽は、
甘藷(さつまいも)の栽培を広めたことでよく知られる。
埼玉県はその甘藷の産地となり、昭和の初めにこの碑が建立
されたと説明される。
大宮公園の奥から旧中山道に向かう裏参道にも鳥居が立つ。
表参道やこの裏参道沿いにも大きな住宅が多い。旧中山道に出た
交差点に「官幣大社氷川神社」の裏参道碑が立つ。
今回は武蔵一宮である氷川神社の紹介になった感じだが、
江戸の初期にはこの参道が中山道であった。世俗的な街道が神域
を通ることはいかがなのものかとの声が挙がり今の道になった。
JR東北線(宇都宮線)を潜る旧中山道の大宮駅方向を見ると
右手に大きな樹が茂る。土手町小島家の椎の木で、江戸時代も
街道にはみ出していたと言う。
回れ右をしてJRを潜り上尾宿に向かう。