昨日、補正予算審議の議場へ向かう閣僚の列、安倍首相の
すぐ後ろ、前列数人があのアベノマスク姿。
そして、新聞の読者投稿の川柳が今日のタイトルである。
昔・・・踏み絵 今・・・布マスク
気が付けば日の出は4時台になっていた。久しぶりに早起き
して江戸川の土手から日の出を眺める。
そして、風薫る五月がはじまる。
JR福知山線脱線事故で妻と妹を失い、娘も瀕死の重傷を
負った、遺族会「4.25ネットワーク」の世話人の淺野弥三一
の背中を見つめたドキュメント「軌道」(松本創、2018年)。
紹介が中断していたが(その3)である。
妻陽子の通夜に来て、おざなりなお詫びと弔いの言葉に
続けて、補償の話を待ちだしたJR西日本南谷会長に怒り、
追い返した淺野は「闘うコンサルタント(都市計画)」と
呼ばれていた・・・、までが前回であった。
尼崎公害訴訟時代から淺野を見つめて来た、神戸新聞記者
(当時)の松本創は、阪神淡路震災後の復興でも、その闘い
ぶりを見つめた。
淺野が関わった復興まちづくりの中で、一番大規模なのが
神戸市須磨区の千歳地区。普通、市の計画を住民に納得させ
る調整役は、市が派遣するコンサルタント。
千歳地区の自治会長、鍋山勝次はツテを辿って紹介された
浅野弥三一に託した。「いろんな災害で住民と一緒にやって
きたというあの人の経歴を聞いてね」。
市が押し付ける区画整理案を、カッとなって怒鳴りつける
鍋山をなだめるのは、一回りも年下の淺野だった。
淺野の仕事は住民が市の案に誘導されないように間に入り、
住民がどうしたいのかを引き出すこと。だから淺野は市の
職員に言った。
「あんたがいたらまとまるもんもまとまらへん。しばらく
来んでもええ。まとまったら呼ぶさかい」。
結果として、統合で廃校になった小学校跡が公園になり、
街の中を幹線道路が通ることもなくなった。閉鎖となった
JR工場跡に公営住宅が建った。
一人でも多く戻って来られるようにが住民の願いだった。
2005年4月24日、震災10年の節目に千歳公園と地区センター
の完成式典があった。
自治会会長の真鍋勝次と淺野弥三一は「やっとここまで
来たな」という安堵に身を浸していた。翌朝に起こる最悪の
事態など、想像する由もなかった。
この淺野がいよいよJR西日本と闘う様子は次回としよう。