台湾治郎

自分の生涯・現在の生活

395 オートバイの話。

2013-04-26 21:59:27 | 台湾
 私は 、オートバイは、中学生の頃から大好きでした。だってオートバイで新聞を配ると早い。もちろん、当時免許は、持って居ません。男は、一度は、このスピード感が大好きで、いろんな人の目を盗んでは、練習していました。もちろん、公園とか、目立たない所で。
 台湾は、バイクは、もの凄く多いです。もちろん、事故も多いです。
私も、バイクに乗りたいですが、少しもう危険な歳。バランス感覚・スリップを防ぐ技術・
ま、我慢した方がよそそうです。高校時代は、免許も持っていました。友建ちのクロスのバイクを借りて運転したことも借ります。高速道路は、走ったこと無いけど、一般道なら・・・。もう免許は、その後書き換えしなかったから・・・。流れてしまいました。
 ま、だから、現在生きているのも・・。
 男は、絶対バイクに塡る。あの爽快感が忘れられません。風を切る楽しさ、まして、後ろに女の子を乗せて・・・。女の子を乗せて、運転は、しませんでした。だって、人のバイクで・・・事故でも起こしたらま、・・・。すべて、万一がありますから。治郎張、高校時代は、しっかりしていたんじゃん。今だって、・・・・、ま、止しましょう。
 若い時代ことは、みんな楽しい。何しても楽しい。映画に行っても、話をしているだけでも
まして、バイクで移動したら・・・・。私は、昔、余程「幸ちゃん」や「雅代」さんを乗せて、海へ行きたかった。季節外れの海って、とても、ロマンチック。
もう、二人で、海岸歩きながら・・・。星を見たら・・・。もう絶対、手をつなぎ、・・・
キスを・・・。そして、・・・。当時高校生だから、もうそれで充分。それで、それ実現したの?していないから、結婚した相手が幸子さんでも、雅代さんありません。
 私たちの高校生同士のつきあいは、その程度。手をつなぐのが一杯一杯。
 相手が違えば、もっと、していましたが・・・。
 バイクの免許を取るのに、四回もうけ、やっと取った免許を・・・。すぐに流すなんて、
もったいない。だって、一度も、バイクを買う位のお金をもったこと・・・。
 浪人した時、図書館でアルバイトした時、結構金持ちでした。当時は、大学受験のために貯金していたから・・・。バイク買おうなんて思わなかった。
 私の給料、一月五万円。大学出て、最初の給料八万九千円。だから、図書館のアルバイトは、結構もらえていました。その金で、大学受験の費用等、準備しました。もちろん、最初の授業料も。初年度の24万だけは、借りました。
 台湾で、三輪車のバイクでも良いから・・・。乗りたいと思う昨今です。
                                再見。

394 キンカンを何故持って居ますか、

2013-04-26 13:21:39 | 台湾
簡単、蚊がきらい・大嫌いだから。デフも嫌いです。
キンカンは、ほかに何に効能ありますか、
切り傷、虫さされ・肩こり・ねんざ・打撲。
私は、時々、昔金玉につけました。どうして、内緒。
何で付けるかわからないでしょ。昔、私は、元バスケット部でした。中学・高校。万年補欠。一度も公式試合出ていません。
けど、・・・・。
 わかるでしょ。タンパンの下は、サトポーターというのは、汗を搔くと、かゆくなり、
インキン・タムシができます。蒸れると大変。金玉の周りに何か出来ます。これが痒いのなんの?
いまの人にもありますかね。
いろいろ直す方法ありますが、当時、皮膚科に行く勇気ありませんでした。
だから、いろいろかゆみ止めのくすり、強い薬を使うと、菌も強くなり・・・。
どんどんひどくなり、猛練習終わった後、すぐに冷やします、冷やしたり、蒸らしたり、いろいろした結果。キンカンが一番安い。
なまじ、抗生物質を使うと、後が大変。
キンカンは、痛い。そりゃ金玉飛び上がるほど、痛い。
おとこは、我慢。
だって、看護婦に俺の金玉見られるのは恥ずかしい。
治郎張でも、恥ずかしいことあるんだ。そりゃあります。
 話が変わりますが、落研では、合宿中、必ず、誰か生け贄になります。
すっぽんぽんにされます。もちろん、チン毛も剃られ、・・・・。
もちろん、女の子の万毛は、剃りません。女の子としたら大変。
そりゃ、そうでしょ。そんなことして、警察に訴える人は、一人もいません。
これを「洒落」と言う言葉で、解釈します。この辺の感覚は、入った人でないとわかりません。もちろん、やられるのは、一年生・二年生。だから、この四回の合宿さえ、のききれば、「リンチ」のようなことは、ありません。ま、やれられると、もう怖い物なし。
なんでも、大丈夫。
 話を戻します。だから、キンカンは、台湾では必需品です。今度、帰る時、あと、四つあります。
結構痛いけど、痒いより全然良いです。
女の人は、あそこに、つけてはいけません。お万個が大きくなり、腫れます。
                         再見

393 人は、大舞台を乗り切ると、

2013-04-26 10:19:47 | 台湾
大学時代落語研究会に所属し、練習・練習・練習。一週間、6回ちょうどお昼の12時から一時までが練習時間。当時の演技部長が大体、その週のだれが、上がるか指図します。
例えば、私の出番が木曜日だとすると、前日までに、何を演じるか、何分ぐらいかを報告します。大体一日五・六人ぐらい。一年生だと、小噺だと、一年生と二年の誰と誰。
次の日は、と言うように月曜日に一週間の予定を発表。それに併せて、練習。
もちろん、うまい人とヘタは、いってこいほどの技量の差があります。そりゃ、もう持って生まれた演技力。うまい人の落語には、「ちから」が抜けている。けっして、大げさにせず、自然と笑いが起こる。ヘタは、妙に笑いを取ろうとするから、「ちから」が入っていて、・・・。墓穴を掘る。大体私は、後者。
 一番うまいのは、「標」。標と書いて、「しめぎ」と読みます。こいつは、うまい。プロになれるレベル。ただ、余り一生懸命は、やりたい思わないのだと思う。やれば、そこそこの落語家になっていたことだろう。私たちの部員数は、時代によって異なるが、大体、四十~五十人ぐらい。四年生になると、そんなに部活に出てこない。もちろん、出てきてももちろんOK。一年生は、募集して、大体十四人。そのうち何人かは、止めることもある。私の同級生も、こりゃ、俺に向いていないと辞めていきました。 辞めるのは一年生の内が一番。だいたい、そうなっているようです。一年耐えた奴は、雰囲気に慣れ、生活を楽しんでいるようです。先輩・後輩の区別は、とても厳しい。普段、先輩にためぐち何かしたら、もう、殴られます。基本的には、殴る様な人は、極く少数。私は、一度も殴ったことはありません。もちろん、その立場でやっいることが多い。これも一つの役割分担。
 一年に二回公演会。六月と十一月。演じては、十人ずつぐらい。六時開演。九時閉園。
3時間で十人。一人約10分~20分。三年生を後半にして、大体演技部長と部長が一年間の演じ手を決めていきます。私は。二年生の時、「孝行糖」という与太郎者をやりました。
そして、三年の秋に「火焔太鼓」。大体、みんな四つか五つぐらい自分の好きなネタを持って居る。その中から、周りとダブらないように、配慮して決めます。
 もう打ち上げは、大変。みんな演じ手に酒をつぎ・・・・。その日は、感動に次ぐ感動。
こう言うのは、やった人でないとわかりません。もう、そりゃいつも大変。一度は、救急車呼んだことがあります。栗村という日本放送でアナウンサーやっている奴。たしか、私の二年下でした。いろんな奴が、それぞれの個性をぶつけ、「落語」に息吹をふきこむ。
簡単なようで難しい。けど、面白かった・・・。若いからできたようなもの。発表会を終えると、もうその人の芸、といえるしろものではないが、人間的な幅が生まれます。本人にも、自信のようなものを感じながら、舞台に立てるようになる。いろいろ慰問や呼ばれての企画でやることがあっても、一度「大舞台」を経験すると、・・・こなせるようになる者だ。ただ、すべてのことには、上には、上。当たり前の話。
 落語に出会い、変わったことは、『ドモリ』が大学一年の夏で、ほとんどわからないレベルに・・・。卒業時期は、気づかれないレベルへ。もちろん、あわてて話そうとすると・・・、たまに戻りますが・・。後は、その個性的な生き方。実に個性的。大学八年生も居ましたから・・。福田は。六年生まで。一人一人の人間性がよくわかりました。まさに、
裸のつきあい。友達と呼べる親友がたくさん出来ました。ま、人間を見る上でこんなに面白い連中もありません。後日その個性については、触れます。ま、楽しければ、何でもし、怖い者しらずの所がありました。正に、青春。今も楽しいがあの頃は、格別。若さ。馬鹿さがあったから。
                           再見。



392 ブログ、今日は、卒業公演を見ていました。

2013-04-26 00:32:04 | 台湾
 治郎張、卒業公演。どこのですか。私は、今、「南強工商」高校の近所に住んでいます。
その生徒がくれました。初めて、新北市板橋区荘敬路62号に行きました。わかりやすい公演でした。
タイトルは「一路上有您」と言う劇を見てきました。約2時間みました。どうだった。そりゃ、面白かったです。
自分も大学時代中央大学で、「落語研究会」に入っていました。もちろん、卒業公演ありました。
私の芸名「三流亭C朝」と言う芸名で・・・。何を演じましたか、「火焔太鼓」という落語。大体,25分話しました。私は、少しだけ,延びました。どうしてですか、
 だって、最後の落ちに中々行かないから、・・・。なんかおなじことずっーと繰り返し、繰り返しやっていたようです。
 おれだって、焦りました。だって、終わるはずものが中々終わりません。たから、三分延びました。
 お茶の水の日仏会館と言うところでやりました。五百人ぐらいは入れる施設。今は、大学が、八王子だから・・・、 
 後輩達がどこで卒業公演しているか知りません。
 終わった後が大変。だって、「スズラン通りのお店で酒を飲みます。三合までは、覚えています。その先は、・・・」
 今までで、いちばんお酒飲みました。
   朝になって、池袋の西口か東口で酔いつぶれていました。もちろん、学生服は、ゲロだから。すいません汚い話で。
 まー私の青春時代を思い出しました。当時、21か22歳。若かった、あの頃・・・。
 落語やると、度胸就きます。だって、当時は、学生ですから。失敗しても、命まで取られません。
 落研の連中、みんなこんなもの。一人残し、「世話ねぇ、じろうの一人や二人いなくなっても、」
「大丈夫。あいつは。生命力強いから・・・」そういっているのは、部長の福田あつしでしょ。こいつは、佐賀県生まれ、唐津。
いろんな奴がしました。大学時代は、落研の連中と、年中一緒。とくに、福田。標。本多。石井。小野沢。柳井。白藤。松沢。
こんな良い連中といつも、酒飲んだり、麻雀したり・・・・・・。当時は、面白いことなら、何でもしました。
一度なんか、北の丸公園で「パトカー」に追いかけられました。逃げたから、良いモンだけど・・・・。
北の丸公園は、とても良い遊び場。だって、夜になるとアベックが来て、いろんなことをしています。
それを見ていたら、パトカーが・・・。当たり前。そういうのを「のぞき」といいます。
知らなかったのですか、知って居ました。わかって居たから,逃げたんでしょ。
                           
それで、治郎張捕まったことは、ない。落語は、受けましたか。生涯で一番受けました。だって、会場には、五百人いる。
俺の落語を聞いて、笑ってくれました。そり以来、人前に立つことは、そんなに怖くなくなりました。
それが、教師としての自信に繋がり・・・。
現在は、台湾に生活しています。もうすぐ日本に帰ります。
ばいばい。
                                            再見。