私は、思うのです。真面目に生きて居れば、いつか「しあわせ」になれる。
真面目とは、何か。自分の仕事、務めを果たすこと。
その人なりに務めがあります。別に仕事でなくても良いけど、人間には、それぞれの役割・生まれてきた意義、役割がみんなあります。障害者で生まれた人は、その人なりに意味があります。親は、その子のお陰で、「障害者」の意味、障害者の喜怒哀楽、普通の人間と同じです。彼らは、身体が不自由、知的に少し遅れている、人とのコミニューケーションが苦手、情緒が安定しない。ただそれだけ。後は普通の人と全く同じ。ただ知的理解が出来ないことがある、身体が思うように使えない、人との会話がうまく行かない。
これは、誰でもあります。年取ってきた私は、物忘れが激しくなってきた。昨日書いたブログ、何を書いたか忘れます。そんなことは、年中。
一般の人も、障害者も一緒。全く同じ。ただ、みんなと同じようにするのに、すこしだけ「ハンデ」があるだけ。
わたしは、教師生活の後半、こういう生徒を相手していました。いろんな生徒が居ました。みんな基本的には、同じ。遊ぶことは、大好き。負けることは、大嫌い。勝てば喜ぶ、負ければ悔しがる。時々、負けると暴れる生徒も。その生徒は、負けることが大嫌いな生徒。 結構ハンデを持って居ても、彼らは、「真面目」に自分の仕事をします。
普通に勤めに出られるレベルの生徒もたくさんいました。パンやさん。農作業、工場のライン。いろんな仕事があります。大切なことは、与えられた仕事を真面目にやる気持ち。
この「前向きな気持ち」が大切です。ニートの人には、こういう、ひたむきさが内容に思うのです。こんな仕事は、俺には、向かない。できないと最初から、見下していませんか。どんな仕事も、社会には重要な仕事です。社会になくてはならない仕事。
どんな仕事も、真面目にやれば、コツがわかります。どんな仕事にも 技術、コツ、テクニックは、あります。それを身につけるだけで、無駄ではありません。
彼らが勤めるには、周りの理解が必要です。この理解があれば、あとは、普通の人と全く同じ。褒めれば、喜ぶ、叱られれば、しょげる。
人間の感情は、障害者もニートもみんな一緒です。
私は、健在学校へも行かず、中国語を勉強しながら、日本語教師を目指しています。
もちろん、真面目に勉強しない日もあります。酒を飲んで、・・・・。
けど、根底のどこかに真面目に勉強しようという気持ちがあれば、いつか私の中国語も通じると信じています。念ずれば通じる。願っているだけでなく、ゆっくりではあるが、自分なりに勉強しているのも事実。今の単語力は、二千個あるかないか。自由に話したり、コミュニケーションするには、五千語とも一万語とも言われています。まだ、まだ、ですがいつか五千語、一万語に達する日が来ます。
人生とは、そういう一歩一歩歩んでいく物だと思うのです。
そうすれば、いつか「日の昇る日がくる」ものです。
再見。
私らの世代は、日本国中が貧しい時代。とくに私の住んでいた葛飾は、この代表例。毎日は、とても楽しかった。夕方になるとみんな集まり、遊びあった。ビー玉、メンコ、ベーゴマ。何をするかは、リーダーが決める。私たちは、それに従って、遊べばいい。子供は、何するのでも、いいのです。何しても楽しければ・・・。
その頃、夢は、ありませんでした。だって、毎日、遊ぶ、仕事。この二つでとても忙しかった。考える暇もないくらい。考えたことがないのです。自分の人生とか、将来なんと言うものは、私は、全然考えて居なかった。ただ、早く大人になりたいとだけ思っていた。大人に成れば、自由にお金が使えて、買いたい物が買える。当時、ものがなかなか買うことが出来ない時代でした。10円が無くて、紙芝居を見ることが何回も出来なかった。
パンにコロッケを挟んで、おもっきり食べてみたい。飴をたくさん買って、ズボンのポケットにたくさん入れたい。そんなことばかり考えて居ましたから、大人は、自由に買うことが出来る様に思えました。ひもじいとかは、ありませんでしたが、いつも我慢が強いられていました。それは、お金が無いから・・・・。我が家が何故、貧乏なのか当時は、わかりませんでしたが、今は、わかりました。当時、私の親父は、いつもギャンブルをしていたようでした。だから、働いても働いても、貧乏。
兄弟6人居て、みんな内職等して、お金を稼いでいましたが、それでは、生活のたし程度で不十分。親父の会社の給料とお袋が商いをして稼いでいました。親父は、かなり遊んでいたようです。私は、わかりませんでした。あまりにも、幼すぎた。兄貴や姉貴の話から、想像しているだけです。私には、いつも一生懸命働いている親父しかありません。
ギャンブルしている親父は、・・・・。かなり高齢になって、一緒に松戸競輪に行ったことあります。
夢を見るようになったのは、勉強初めてからです。つまり、十四歳。その時初めて、自分なりの夢を描くようになりました。要は、自分が誕生していなかったのです。幼い頃は、ただ生きて、働いて、遊んで・・・。生物として、存在しましたが。こころとか信念が育っていなかったのだと思います。今考えても、それ以前のことは、覚えていますが、自分の将来、未来について、真剣に考えることは、全くありませんでした。毎日、将棋したり、トランプしたり、楽しければいい。ただそれだけでした。
目標を持ってからの毎日は、早い。一週間があっという間におわり、次の課題。一週間ごとに、勉強のノルマを掛けていたようです。例えば、数学は、このページまで。終わらないと、図書館等に行ってやっていたようです。決して、そのことが苦痛を全く感じませんでした。むしろ、楽しくてしょうがない。ま、今まで、全然勉強しなかったのだから、無理もありません。そんな簡単なこともできないと思うことがとても嫌でした。こんな恥ずかしいと思ったことは、ありません。つまり、自分という人間が誕生していないときは、恥ずかしいというものは、存在しないのです。
5年間私は、私の目を追いかけてみました。最終的には、難しいと言うことがよくわかりました。けど、この5年間が私には、とても「貴重」なものでした。この経験があればこそ、「人間やればなんでもてきる。」「やる気さえすれば出来る。」という楽観的人生観を持つことが出来たのです。私にとって、この5年間は、人生道場でした。辛くない、毎日青春の道場でした。あの頃のエネルギーは、もう無いが・・・。現在のしていることは、あの頃によく似ている。見えない道を歩いているような・・・。けど、それも楽しい。
いつまでも夢を持った人生でありたいと願って生活しています。