家族が一緒に生活し、食卓で食事をしながら、ああでもない、こうでもないと自由に言い合う。これがオランダの教育の原風景。
つまり、家族のその日会った出来事を自由に言い合う。ひとりひとりが自分の価値観をぶつけ、みんなで、その価値観が正しいか、確かめ合う。親も子供もその家族である点では、同等。オランダでは、親も子も同等の価値。日本のように、親が偉いという固定概念はない。そして、それぞれの考えの中で、親の考えが優れていると言う時、親を尊敬する。
固定概念がないと言うことは、一つ一つの価値を確認し合い、確かめ合う。
食卓のおかずは、常に家族の発言。誰一人として、話さない、発言しない人は、いない。
その日々の話し合いの中で、自分の価値観を洗い出し、すべて自己決定していく。
自分の人生の夢、目標。それぞれがいつもオープンになり、今何をすべきか、どのように、その自己実現に向かうか、話し合われる。日本の食卓風景とは、全く違う風景がある。
もちろん、オランダは、移民の国。どの家庭も、みんな違う。違うのは、家庭だけでなく、ひとりひとりも。当たり前だが、日本のように、移民の居ない国では、みんな同じが当たり前。その当たり前が、個性を押さえた、集団生活という名の下に「我慢」が強いられ、他の人間との、協調性が大切にされる社会が生まれた。
もちろん、それぞれの国の違い、教育の違いは、会って当たり前。歴史、民族性、国家の求める像、みんな違うのだから。
私は、昔から、「マイホーム主義」というのは、好きでなかった。自分の家族が一番という考えに基づき、家族単位で行動する。どうも、最近、幸せには、家族が重要でその中の充足感こそ、社会や会社に働きかけるエネルギー源。
まったく別の環境にぞたった私には、とても不思議な風景です。私の家では、家族が何か言い合うことは、ありません。おかずの取り合いは、年中でしたが、家族がみんな話すことは、ありません。まして、その日の出来事・・・・。ま、オランダと日本の違いかもしれません。
オランダの一人一人の自律がわかる様な気がしますが、日本人から見ると、「絵に描いた餅」のような気がします。ただ、日本の若者が多く苦しんで、生活してる気がして・・。どうすれば、当てにならない経済政策の回復を待つ意外に方法は、ないのでしょうか。
出口が見つかりにくい。ま、じっくり、安倍さんの経済政策を見守りましょう。
再見。
別に宗教とか関係なく、人間と生まれたからには、務めがあります。
それは、生まれてからずっーと。
遊んでいるときも、授業中も、家族と居るときも、
どんな時でも、場面、時代、。その人なりの務めがあります。人は、生まれてから死ぬまで、その務めを果たすことが最大の仕事のような気がしてきました。
もちろん、その人の成長、年齢、立場、などによってすべて異なります。
その務めには、一つのルールがあります。
1 まず人の話を聞くこと。
2 我慢をすること。
3 集中すること。
この三つのルールを身につけた上に自分の価値を作り上げます。他の人の価値と自分の価値感は、常にぶつかり合います。だから、他の人の話は、聞くのです。聞いてそれを受け入れるかどうかは、自分。
どんなにその人が優れていても、先人達の残した哲学書、文化、映像には、及びません。ただ先人達のものは、知識です。知識というのは、自分の身体をくぐらない限り、単なる「知」に過ぎません。ひとつひとつ知識が身体を通過して、初めて血の通った知識となるのです。
そして、ここにも一ついてはいけないことがあります。それは、親より早く死んではいけない。子供は、親より長生きする。病気、事故さまざまあります。それを乗り越えなくてはいけない。これは、簡単なことのようで居て、結構難しいことです。
人生は、何が起こるかわかりません。それも人生修行と捉えれば、乗り越えられるかもしれません。いつも最悪の結果を想定すれば、・・・。現在が、それよりか何割か良い場合もあるのではないですか。
わたしは、今、台湾で生活しながら、自分の人生が何だったのか、どんな意味があるのか考えさせられます。
そして、一つの結論。
人には、みんな務めがある。
当たり前でしょと言われてしまうかもしれません。当たり前のことを私は、この年に成って、わかりかけてきたのです。
再見。