私は、その人の人生が終わったとき、幸せかどうか、わかるとと思っていましたが・・・・。私の知って居る人の中で人生を、終えたのは、親父、お袋、義理の母、息子。
彼らは、私の見る限り、そこそこ幸せでした。自分のしたいこと、行きたいところ、していたように思います。だから、合格点ではないか。
息子については、六歳という年齢。これが残念ですが、今となっては、宿命、寿命と考え、諦めるしか有りません。彼が幸せだったかどうか、それは、あまりにも小さいのでねわかりません。
人は、自分の運命を選んでは、生まれることは、できません。もしかしたら、障害者として、生まれることもあります。目が不自由、脳の病気、血液の病気さまざま。
大学病院に行くと、様々な運命と闘って生きていらっしゃる方がたくさんいます。そう言う人には、「しあわせ」は、ないのか?
私は、どうも常識的な物差しに、囚われていました。身体が不自由でも、幸せは、有ります。もちろん、たくさんの方の支援を貰いながらですが・・。身体の不自由な人に自立しろと言うのは、無茶です。自分の出来る範囲の行動を超えています。自分のベストを尽くして生きればいいのでは・・・。もちろん、客観的に「しあわせ」かどうか?
どうも、幸せというのは、主観的な問題なのではないか。ビンボウでも、明るく楽しく家族で暮らしている方は、たくさんいる。その人は、その人なりに精一杯生きても、貧乏からは、逃れられないこともある。他の人から見て、大変と思えることも、本人は、至って、「しあわせ」なのかもしれない。
私は、幸せ をいくつか定義しました。
一つ、他人に役立つ仕事を持つ
二つ 仲間がいる
三つ 経済的に困らない。
四つ 家族が居る
五つ 夢や計画を持って居る。
いろいろ定義しましたが、どれも当たって居るようで当たって居ないような気がしてきました。昔のブログいくつか読みました。結構、ブログの中で「幸せ論」をたくさん述べています。 頭でっかちなだけのような気がします。もっと単純で言いように思う。
生きる上でのベストを尽くせばいいのでは・・・。どんなにベストを尽くしても、病気は、直らないことも・・。直らない人は、不幸ですか?健康でない人は、幸せには、成れませんか?
病気でなくなった方、そう言う人も、その死を迎える前までは、幸せだったのではないか。それが普通人より短いというだけ。 寿命は、選べないのですから・・・。
自分の「精一杯の生」をぶつけて生きて、仮に六歳。十五歳。二五歳。親にしてみれば、とてもいたたまれませんが、その子、その人なりの幸せは、有ったのではないか?
人生という物差しが、どうも一般論に偏りすぎていたように思います。
いろんな幸せ論がもっとあって言いように思いました。
再見。
彼らは、私の見る限り、そこそこ幸せでした。自分のしたいこと、行きたいところ、していたように思います。だから、合格点ではないか。
息子については、六歳という年齢。これが残念ですが、今となっては、宿命、寿命と考え、諦めるしか有りません。彼が幸せだったかどうか、それは、あまりにも小さいのでねわかりません。
人は、自分の運命を選んでは、生まれることは、できません。もしかしたら、障害者として、生まれることもあります。目が不自由、脳の病気、血液の病気さまざま。
大学病院に行くと、様々な運命と闘って生きていらっしゃる方がたくさんいます。そう言う人には、「しあわせ」は、ないのか?
私は、どうも常識的な物差しに、囚われていました。身体が不自由でも、幸せは、有ります。もちろん、たくさんの方の支援を貰いながらですが・・。身体の不自由な人に自立しろと言うのは、無茶です。自分の出来る範囲の行動を超えています。自分のベストを尽くして生きればいいのでは・・・。もちろん、客観的に「しあわせ」かどうか?
どうも、幸せというのは、主観的な問題なのではないか。ビンボウでも、明るく楽しく家族で暮らしている方は、たくさんいる。その人は、その人なりに精一杯生きても、貧乏からは、逃れられないこともある。他の人から見て、大変と思えることも、本人は、至って、「しあわせ」なのかもしれない。
私は、幸せ をいくつか定義しました。
一つ、他人に役立つ仕事を持つ
二つ 仲間がいる
三つ 経済的に困らない。
四つ 家族が居る
五つ 夢や計画を持って居る。
いろいろ定義しましたが、どれも当たって居るようで当たって居ないような気がしてきました。昔のブログいくつか読みました。結構、ブログの中で「幸せ論」をたくさん述べています。 頭でっかちなだけのような気がします。もっと単純で言いように思う。
生きる上でのベストを尽くせばいいのでは・・・。どんなにベストを尽くしても、病気は、直らないことも・・。直らない人は、不幸ですか?健康でない人は、幸せには、成れませんか?
病気でなくなった方、そう言う人も、その死を迎える前までは、幸せだったのではないか。それが普通人より短いというだけ。 寿命は、選べないのですから・・・。
自分の「精一杯の生」をぶつけて生きて、仮に六歳。十五歳。二五歳。親にしてみれば、とてもいたたまれませんが、その子、その人なりの幸せは、有ったのではないか?
人生という物差しが、どうも一般論に偏りすぎていたように思います。
いろんな幸せ論がもっとあって言いように思いました。
再見。